雨宮翔吾と三浦さんは昼休み少し前に帰社した。
わたしはそっちを見ないようにデスクの上のパソコンに向かい、入力作業を行っていた。
「ただいま」
雨宮翔吾がわたしの右隣の席に戻ってきて小さな声で囁く。
その低いバリトンを聞いただけでわたしの胸が疼いてしまった。
ダメじゃん! こんなことで動揺してたらおかしいって! まるでわたしも好きみたいじゃない!
……わたしもって、違う。
雨宮翔吾はわたしのことなんか好きじゃない! 何かの間違いだって。
「雨宮ー! ちょっとこっちいい? 昨日の会議のことでー」
「はい! 今行きます!」
さっとスーツの上着を脱いで椅子の背もたれにかけ、風のように去って行く。
雨宮翔吾の動きで生じた風がわたしを扇ぐ……それだけで上気していた頬が少し冷やされるようだった。
昨日と同じスーツ……昨日の夜はわたしとホテルで一泊した……紛れもない事実。
ふと、そのスーツの上着を見ると袖のところのボタンが取れかかっていた。
そういえば……前にもこんなこと、あったなあ。
『風間さん、悪いんすけどボタンつけてもらえません? 取れちゃいそうで。これから外回りなんすけど』
あれは雨宮翔吾が入社して半年くらい経った頃だったかな?
スーツの前のボタンがブラブラしてたのをつけてくれって頼まれたことがあった。
ソーイングセットは持ってたけど、腕に自信はないんだよなあと思いつつ引き受けた。
しかもこれから外回りで急いでる時だったから焦ってつけたっけ。
『すんません! ありがとうございますっ』
『あ……んまり上手についてないから、あとでつけ直してもらってください』
ジャケットを受け取って走り去っていく雨宮翔吾の背中に向かってそう言うと、後ろ手をあげて振ってくれたっけ。
あのボタン、ちゃんとつけ直してもらえたのかな?
昼休みのチャイムが鳴って、人が減っていく。
雨宮翔吾の姿もすでに見当たらなかった。
今ならバレずに……。
デスクで食事を摂るフリをして、雨宮翔吾のスーツの袖を引っ張りつつ自分の膝に乗せる。
椅子にかけたままつけられる距離でよかった……これなら不自然じゃないもんね。
もともと裁縫とか苦手なんだけど、とりあえず取れなきゃ、いいよね。
「あっ! つぅ……」
やっぱり自分の指差しちゃった。絶対一回はやらかしてしまう。本当に不器用なんだ。
左手の人差し指の先に血の玉が浮かび上がる。
スーツに血がつかないように絆創膏を貼りつけてから再び作業に戻った。
できたけどやっぱり自分が不器用なのが証明される出来なんだよな……。
やや不満足ながらも再度つけ直すには時間がかかりそうなのでそのままにしておくことにした。
デスクでパンをかじって携帯小説を読んでいると、あっという間に休み時間は終わってしまう。
先輩達は休み時間終了間際にトイレの鏡を占領するからそれまでにわたし達のような下っ端は歯磨きを済ませないといけない。時間が被らないようするのも必死なのだ。
歯磨きをしにトイレに向かうと、同じ課の同期で同い年の
水上咲子がいた。
彼女も入社二年目の下っ端だから先輩と重ならないよう時間をずらしているのだ。
雨宮翔吾が入社してくるまではわたしは咲子と一緒に昼食をとっていた。
でも、わたしが雨宮翔吾に仕事を頼まれるようになって先輩から睨まれだすと咲子はわたしから去っていった。
そして先輩達とお昼を一緒にするようになった。
わたしと一緒にお昼を食べていた時はナチュラルメイクだったのに、先輩達と仲良くなったら少し化粧が濃くなった気がする。そんなこと直接言えないけど。
一つ間を開けた洗面台を使用し、歯を磨き始める。
鏡に映る自分の顔や髪型を見ると、いつもことだけど毛先があらぬ方向を向いているのが気になった。
右の頭頂部、割れていないといいけど……今日はワックスを持ってなかったから不安だ。
「雪乃、あの……」
「え?」
「ううん、なんでもない。じゃ」
すうっとわたしの後ろを咲子が通り過ぎてトイレを後にした。
何か言いかけていたけど、なんだろう……。
ひさしぶりに咲子の方から声をかけてもらえてうれしかったのにな。
十三時きっかりに戻ると、雨宮翔吾の席の右隣に高畑さんが立ってふたりで笑いあっていた。
高畑さん、今日は歯磨きとメイク直しもう終わってるのかな? どうでもいいけど……。
そのふたりの後ろを通って自分の席に戻る。
「またボタン取れそうだったら言ってちょうだいね。まあ、気づいたら今日みたいに勝手につけちゃうけど」
「はい、ありがとうございます」
ボタン?
雨宮翔吾の膝の上にスーツの上着がのせられているのが見えた。
ボタンってさっきわたしがつけたあれのこと……?
高畑さん、まさか自分がつけたって言ったのかな? あんなへんちくりんなつけ方しちゃったのに。
「翔吾、ちょっといい?」
ふいに後ろから少し艶のある女性の声が雨宮翔吾を下の名前で呼んだ。
聞き覚えのない声、そして下の名前で呼ぶ親しげな雰囲気に思わずわたしまで振り返ってしまった。
「真奈美? どうしたんだよ?」
うわっ! 新入社員の秘書課の
海原真奈美さんだ!
わが社きっての美人新人と入社式の日、話題になった人。
その美貌を買われて秘書課に配属された期待の大型新人で、いきなり常務付きに任命されたって一時期騒然となった時の人だった。
真っ直ぐなストレートヘアが肩を覆うくらいの長さできれいに切りそろえられてる。
ナチュラルメイクが美しい……目はぱっちりで唇はふっくら見えるよう下唇大きめに塗ってるんだ。
しかも派手じゃないブラウン系のものを選んでいる……自分に似合う色をわかっているんだな。
「サークルのOB会の話があって……営業部って昼休み終わっちゃったの?」
「ああ、十三時までだ。少しなら時間取れるけど?」
高畑さんが悔しそうな表情でふたりのやり取りを見てる……。
残念だけどこの勝負、絶対に海原さんの勝利だと思うな。これだけの美人そういないし。
そっか、海原さんってK大卒で雨宮翔吾と同期だから知り合いなのか。
名前で呼び合う仲なんだから相当親しいんだろうな。
「あら? その上着……」
海原さんが雨宮翔吾の膝からスーツの上着を取った。
左の腕の部分のボタンをまじまじ見つめている。
「ちょっと貸りてくわ。これつけ直してあげる」
クスッと小さく上品に笑う海原さんを横目で見てしまう。
高畑さんもえっ? て顔で彼女を見つめていた。
「え、なんでつけ直すって?」
「だってこんなつけ方じゃみっともないわよ。すぐに終わるから待ってて」
すっと風のように爽やかな余韻を残し、海原さんが雨宮翔吾の上着を持って去って行った。
――みっともない。
高畑さんはわなわな震え、雨宮翔吾は彼女に軽く頭を下げて海原さんを追って行く。
わたしは……心の中でみっともないを噛みしめながら、午後の仕事を始めたのだった。
みっともないのは、わたしもボタンも一緒か。
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