第21話 同居するふたり柊視点
俺の取引条件の提示にオロオロと戸惑いを見せる彼女、未来の携帯電話を借りて母親に連絡をした。
その会話を聴きながら、更に泣き出しそうな表情を見せる。
開口一番「身代金ですか?」と聞かれたのにはさすがに戸惑ってしまった。
これは誘拐ではないこと、未来が無事なことを最初に伝えた。本当は未来が無事だという証拠を、声を聞かせてあげられれば一番安心するのだろうけど、それができないのは少し歯痒かった。
その後、未来の当面必要な荷物をまとめるように母親へ伝えた。もちろん父親に内緒で。
一時間後、未来の家の傍にある土手で落ち合う約束をして電話を切った。
彼女も連れて行く約束をしたので、パジャマに俺のコートを羽織らせた。
車の助手席に彼女を座らせ、指定した土手へ向かう。車中では常に未来はびくびくと怯えたような様子を見せた。家のそばに近づくにつれてキョロキョロと更に落ち着きがなくなっていた。
二十二時半。
土手に車を停めると、橋を渡りきったところにひとりの女性が佇んでいた。
その女性を遠目に見ながら未来の電話で母親にコールすると、携帯電話を取り出している。やっぱりあの女性が未来の母親。少し面影がある。
母親に車を停めている場所を伝え、すぐに電話を切った。
助手席では未来があどけない表情で眠っている。
車の中でビクビクしていた未来は、ここにつく間際に急にウトウトしはじめた。よっぽど気が張っていて疲れていたのだろう。眠ってしまいそうだとは思っていた。自分が着ていた薄いコートを上からかける。
橋の方から女性が走ってくるのが見えて、運転席を降りた。
未来の母親が車の前にたどり着くのを待って深く一礼すると、強張った表情で同じように返してきた。
「お呼び立てして申し訳ありません。私はこういう者です」
自分の学校名の入った名刺を未来の母親に手渡すと、驚いた表情でそれを見ていた。
「高校の先生? 未来とはどういった?」
「図書館で自分がお世話になっているんです。こちらへ」
母親を未来がよく見える助手席のドア側へ促す。
背もたれに寄りかかり、助手席側の窓の方に顔を向けて気持ちよさそうに眠る未来の姿を確認した母親は、安堵のため息をついた。
「左頬の辺りを見てください。あなたのご主人が叩いているのを見ました」
「―――!!」
母親が自分の口を押さえて声にならない吸気音を上げた。
一瞬にして母親の顔色が青ざめていく。本当のことを言えばもっとショックを受けるだろう。倒れてしまうかもしれない、そう思った
「このままでは彼女が傷つきます。心も身体も……私が現場を発見した時、彼女はこう言いました」
母親を見ると、濡れた目で俺を見ていた。すでに涙を堪えきれないと言った様子。
次の言葉を待っているようだった。
「『見ないで』って。普通は『助けて』でしょう? 未来さんはもう助けを求めても無駄だと思っています。重症です」
泣き崩れそうになりふらつく母親に手を差し伸べると、固辞された。
青ざめた表情で「大丈夫です」と言われたが、全く大丈夫そうには見えなかった。だけどそのまま話を続ける。
「しばらく未来さんを預からせてください。そちらの状況が落ち着くまでうちで面倒見ます」
「えっ? そんな……」
驚いた母親の目元に疲労の色がくっきりと見えた。
この母親も相当参っているようだ。よく見ると、未来と似た部分がとても多く美しい顔立ちなのにいやに顔色が悪い。
「大丈夫です。責任は持ちます。未来さんに手を出すようなことはしません」
たぶんそのひと言が聞きたかったのだろう。母親の目に光が宿ったように見えた。
安心するのであれば、俺は何度でも言ってやる。
「本当ですね」
怖いくらいの母親の眼差し。
俺はその目を見て大きくうなずいた。
「絶対ですよ」
「未来さんがいやがることは絶対にしません」
母親は俺の目を射るように見つめ、うなずいた。
持ってきた未来の荷物を俺に渡してきたので受け取ると、そのボストンバッグはかなり重かった。それは母親の未来への愛情の大きさのように思えた。
母親は助手席の窓に自分の顔を擦りつけるように近づいて未来を見つめ、大粒の涙を流した。
「未来、ごめんねぇ……」
その場に泣き崩れる母親を俺はただ静かに見つめることしかできなかった。
**
結局未来は起きず、そのまま母親と別れ、帰路についた。
起こそうかと思ったけど、気持ちよさそうに眠る未来を見て安心した母親が「このままで」と言った。
連絡用に母親に俺の携帯番号のナンバーとアドレスと住所を教えておいた。父親には絶対に伝えないよう念を押して。
車の中で未来を見つめながら俺は考えていた。
『弓月』というのは母親の姓なのだろう。
実父の姓は『小林』だから母親の籍に入ったのかもしれない。
それでも、未来と俺は腹違いの兄妹になる。
未来が俺の妹……しかもこんなに美しい妹。
家について、未来を起こして車を降りる。
何かを食べさせようと思ったらいらないと拒否された。父と顔を合わせたくないからもともと夕食はあまり食べてなかったと言う。玄関を入って右側の空き部屋に布団を敷き、未来を寝かせた。
実父を呪ってやりたいくらい憎かった。
少なくとも俺の父親であった時は暴力を振るう男ではなかった。どちらかと言えば気が弱くて、人に怒りの矛先を向けるとは無縁のタイプ。ただ黙々と風景画を描いている、そんなイメージしかなかった。だからさっきの狂ったように怒りを表す実父が別人のように思えたのだ。
俺と別れた後の十七年の間に何があったというんだ。
未来がいる部屋の向かいが俺の寝室。
そこでアルバムを広げて見ていると、ひとつのことを思い出した。
俺は未来に逢ったことが、ある。
約十年前、俺が十二歳頃のこと。
実父が小さい女の子を公園で遊ばせているのを見たことがあった。四、五歳くらいに見えた。実父の方へ向かって歩いて行く愛くるしい女の子の姿。
実父はその子のことを『みーちゃん』と呼んでいた。
幸せそうな実父と女の子の笑顔を見て、声をかけるのをやめてしまったんだ。
幼心に、実父の娘なら俺の妹にあたるんだなって思っていた記憶がある。もう二度と会うつもりもなかったからすっかり忘れていた。
アルバムに残された五歳の俺と父親の写真。
今の父に悪いから、隠すように取っておいたこの一枚。穏やかな表情で写っている。
なんであんなふうになってしまったんだ。ただ絵が好きなだけの父親だったのに……。
**
しばらくぼーっとその写真を眺めるように見ていたら、部屋の扉がノックされる音がした。
アルバムを隠して扉を開けると、俯いた未来が立っている。
「どうした? お腹空いた?」
首を横に二回振って俯いたまま、未来が携帯電話の画面をこっちに向けた。
『今日だけ一緒に寝て。怖くて眠れないの』
ひとりきりになると、さっきのことを思い出してしまうのかもしれない。
未来を部屋に招き入れると、うれしそうな笑顔を見せた。
許可を出した後、すぐに少しだけ後悔した。俺が眠れるのだろうか。でも許可してしまったものはしょうがない。
ダブルベッドの右側の壁の方に未来を寝かせ、俺は左側で横になる。
これなら未来がベッドから落ちる心配もない。ベッドライトをつけて真っ暗にならないようにしておく。
“ありがとう。おやすみなさい。柊さん”
そうつぶやいて、未来が目を閉じた。だいぶ未来の唇の動きを理解できるようになっていた。
左の頬はまだ腫れていて口角はやや青色に変色している。
未来の頭を撫で、せめて幸せな夢が見られるように祈った。
――俺の妹。
つい、ここで暮らすよう言ってしまった。だけど後悔は全くない。
このままあの家に帰したら、また同じことになるのは必至。それをわかっていて帰らせるなんてこと絶対にできなかったんだ。
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