第13話 助けてくれた彼未来視点
学校の図書室で書架整理中。
あと三日間返却係をやれば、他のクラスの図書委員と交代になる。そうすれば図書館のバイトに集中できる。
今日も返却本が多い。でも図書室に生徒はひとりもいない。
いつどうやって本を選んで借りているのか、誰がこんなに借りているのかさっぱり見当がつかない。
返却本置き場にドーンと積み上げてあるだけ。しかも借りられている本が妙だったりすることもある。棚の同じところからゴソッと借りられていたり、その方が片付けやすいけども……変な借りられ方。とりあえず少しずつ手早く書架へ戻す。
「弓月さん、今日もありがとう」
向かいの書架のかげから橋本先輩が顔を覗かせた。
軽く会釈をしておく。デートに誘われてから初めて顔をあわせるんだけど、何となく目を合わせづらい。わたしがこれじゃ橋本先輩に気を遣わせてしまうかもしれない。なるべくいつも通りを心がけよう。
「今日も返却本が多いね」
橋本先輩がわたしの隣に並んで本を戻し始めた。
書架の方を見ながらわたしも二回うなずいておく。
「D組の当番はもう少しだね」
橋本先輩が返却本を手にして、それを見ながら小さくつぶやく。
そっちを見ると、寂しそうに笑う橋本先輩がいた。目が合うとやっぱり恥ずかしくてすぐに逸らしてしまう。
「それまでに一回デートしたいな」
驚いて持っていた本を落としそうになってしまった。いつも通りの橋本先輩だ。
横から覗き込まれるように視線を向けられているのがわかる。どうしよう。
あれから考えたけど、受けることも断ることも理由が浮かばなくてなんと答えたらいいかわからない。だからわたしは書架の方を見て俯くことしかできなくて。
すると、いきなりわたしが本を持っていた右手首を強く掴まれた。
「オレのこと、嫌い?」
声を潜めてそう尋ねられ、書架の方を向いたまま小さく横に首を振る。
「弓月さん」
「――!!」
いきなり前から左肩を抱かれ、橋本先輩の胸に抱き寄せられた。
――バサッと右手に持っていた本が音を立てて床に落ちた。ふわっと何かのコロンの香りのようなものを感じる。
ふいに義父に抱きしめられた感覚が甦った。
この人は義父じゃない。それに義父から香るのはコロンじゃなくて煙草の匂いだ。
どくん、どくんと胸の拍動が加速してゆく。右手首が自由にならない。左手を橋本先輩の右胸の辺りに置き、少し身体を離そうとしてみた。
「いや?」
橋本先輩が躊躇いがちにわたしの顔を覗き込んでくる。
嫌というより恐怖心の方が強かった。どうしても義父を思い出させる。自分の身体が震えているのがわかった。少しでも早く離してほしかった。それなのに――
「――未来!!」
右手が自由になった瞬間、橋本先輩の両手で抱きしめられた。
すごく力強くて苦しい。一瞬にして全身が総毛立つ。力を込めて必死に抵抗した。その度に靴が床を蹴り上げる音だけが静かな図書館に響く。
“先輩……苦しい”
唇で伝えてもわかるわけがない。見えてないし見ていないんだから。
左手で胸を押し、右手で橋本先輩の腕を掴む。どうしても離してほしかった。こんなのいやだ。
橋本先輩の腕の中でもがけばもがくほど強く抱きしめられる。痛いくらいの強いその力は義父そのものに感じられた。
恐怖心が増長してゆく。ぞくりと背筋が凍りつくような感覚。
“離して!!”
声にならない叫びを上げた時、橋本先輩の右手がわたしの左下顎を包んで持ち上げた。
掴まれた顎が痛い。橋本先輩の目がいつもより鋭くわたしを見ている。その瞳は今まで見たことのないくらい濃く色づいているように見えた。
それも、義父の――あの時と同じ。
“ごめんなさい……離して”
小さく首を振って哀願するけど力は緩まない。
その時、橋本先輩の顔がわたしに近づいてきた。
“先輩! いやっ――”
「何やってるんですか?」
聞き覚えのある男の人の声に、橋本先輩の動きが止まる。
何の気配も感じなかったのに誰かがいたんだ。首だけ振り返ると、そこには昨日わたしを助けてくれた人の姿があった。
“佐藤くん!!”
必死に唇を動かして、彼の名を呼んだ。すると、佐藤くんの唇が『来い』と動いたのがわかった。
佐藤くんの方に駆け寄ってその後ろに身を隠すと、橋本先輩が去って行く足音が聞こえた。それでも身体の震えは止まらない。
「大丈夫? 弓月?」
向き直った佐藤くんが心配そうにわたしを覗き込む。その表情がみるみるぼやけていった。
自分の目に涙がたまっているのがわかる。佐藤くんの唇が何かを言いたそうにゆっくりと開いたのが見え、安心して思わず彼の胸に抱きついてしまっていた。
そこは暖かくて、煙草の匂いもコロンの香りもしなかった。
この胸は大丈夫、なぜだかわからないけど一瞬にしてそう思った。だから必死にしがみつく。
“佐藤くん! 佐藤くん!”
その名を呼びながら、彼のブレザーの背中をギュッと握りしめていた。
「……もう大丈夫だよ」
頭の上の方で佐藤くんの優しい声が聞こえた。さっきわたし達に向けた低いトーンの声とは全く別のものだった。その声にまたわたしの恐怖心は緩み、流れ出る涙が止まらなくなる。佐藤くんのブレザーの左胸の辺りがわたしの涙で濡れていった。
「弓月、もう大丈夫だから」
そっと佐藤くんの手がわたしの頭をを優しく撫でてくれた。
それにほっとしてさらに涙が止まらなくなってしまった。羞恥心なんてどこかかに置き忘れ来たかのように、わたしはずっと泣き続けてしまっていたのだ。
**
“本当にごめんなさい”
落ち着くまでしばらく時間がかかってしまった。
それなのに、佐藤くんはずっとわたしに胸を貸していてくれた。我に返ってやっと謝れたけど、その間に他の生徒がここに来なくてよかった。
「いや、いいよ」
目の前にハンカチが差し出される。
茶色いバーバリーのマークがついたアイロンのかかったそれを見て、借りっぱなしのハンカチの存在を思い出した。
ポケットから携帯電話を取り出して文章を入れ、それを佐藤くんに向ける。
『昨日のハンカチも借りっぱなしでごめんなさい。ちゃんと洗って返します』
「気にしなくていいのに」
佐藤くんがふき出すように笑う。
やわらかく微笑まれたその表情にわたしは驚いてしまった。
「何?」
不思議そうな顔をする佐藤くん。今まで見てた笑顔がなくなって少しだけ寂しくなる。もっと見てたかった。慌てて文章を打って佐藤くんに見せた。
『初めて笑いかけてもらえた』
佐藤くんの表情が驚きに変化する。
初めて自分だけに向けてくれた笑顔がうれしくて、わたしも笑いかけた。他の人にはいつも優しく笑いかけるその表情を自分にも向けてほしかった。ずっとそう思ってた。
佐藤くんの顔が見る見る間に真っ赤になってゆく。
「……やべぇ」
耳まで真っ赤になってる。こんな佐藤くん初めて見た。いつも冷静でクールなイメージだったから。
もう一度携帯電話に文字を打って、佐藤くんに見せた。
『言うの忘れてたけど、助けてくれてありがとう』
自分がパニックして泣いたお詫びはしたけど、お礼を言うのを忘れていたのに気づいた。
佐藤くんが携帯の画面を凝視している。わたしは首を傾げてその様を見ていた。唇でも“ありがとう”と何度も伝え続ける。
「弓月……」
佐藤くんの小さな声がわたしの名字をつぶやく。それが妙に熱っぽく聞こえた。
もう大丈夫、という気持ちを込めて笑いかけてから頭を下げる。
“ありがとう”
唇でもう一度思いを伝えると、佐藤くんの顔に一瞬緊張が走った気がした。
そうだ、佐藤くんにもうひとつお礼があったんだ。今が伝えるチャンスと言わんばかりに更にその後に文章を繋げて彼に向ける。
『わたしに特待生の権利を譲ってくれてありがとうございます。感謝しています』
もう一度深々と頭を下げた。
ずっとずっと、言いたかったこと。
彼のおかげでわたしは高校生になれた。だから、絶対に言わなきゃいけないことだった。
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