その週末、仕事を終えた翔吾さんはそのまま実家に帰った。
わたしひとり留守番させるのは心配だから、咲子を呼べばいいと言われたけど大丈夫と見送った。
交通事故にあった後からか、はたまたその前からか定かじゃないけど心配しすぎ。たった一日二日のことなのに。
短大から今までの四年間はひとり暮らしをしてきてたのに忘れてるのかなあ。そんなに頼りないかな。もう二十二歳の立派な大人だよ。
翔吾さんは、実家のご両親にわたしのことを話しに行ったのだ。
最初に自分から両親を説得して、わたしとのことを認めてもらうと意気込んで向かって行った。
湯田専務の娘さんとの縁談を自分の力で断りきれなかったことを相当悔やんでいるみたい。
クマさんとおじいちゃんに感謝はしてる。だけど自分が情けないって思ってるみたいだから何とかその思いを少しでも軽減してほしい。
だから、今回翔吾さんがひとりでご両親を説得に行くのを笑顔で見送った。
わたしのために一生懸命になってくれている翔吾さん。本当にありがたいとしか言いようがない。
**
数日前。
母がすでに他界していることをようやく翔吾さんに話した。
結婚することになったので、もう母がいないことを隠し通せるわけがない。そう思ったから。
だけど母が自殺したことは言っていない。病気で亡くなった、そう話した。
自殺した事実はわたしだけの秘密から、叔父叔母夫婦と三人だけの秘密になっている。
今まで隠していたことを謝罪すると、翔吾さんは驚いた表情を見せたけどすぐに許してくれた。
ひとりでよく頑張ったね、と抱きしめてくれた。
叔父叔母夫婦がいたからひとりじゃなかった。わたしは寂しくなんかなかった。そう伝えると、翔吾さんが泣き出しそうな顔をしておかしかった。
来週は翔吾さんとわたしの叔父叔母夫婦の家に行く予定になっている。
ちゃんと挨拶をして、正式に結婚の報告をしたいと言ったのは翔吾さんだった。
叔父叔母が翔吾さんに会わせてほしいと言っていたことを伝える前に、翔吾さんのほうから申し出てくれた。
彼の実家は、今住んでいるこのマンションから電車で約三十分くらい先の駅にあると聞いた。
わたしが元住んでいたマンションとは真逆の駅なので行ったことはない。
ご両親が住む実家のひとつ手前、このマンション寄りの駅に父と翔吾さんのお姉さんが住んでいる。そこには数回行ったことがあった。
高校時代、母が亡くなった後。
父の職場からこっそりあとをつけた。今考えるといつバレてもおかしくなかったと思う。
だけど父は気づかなかった。愛する妻と子どもが住む家に少しでも早く帰ろうとしていたのだろう。前だけを見て足早に進んでゆく。
その背中を追うのにわたしは走った。追いつきもしない、振り返ってもらえることなんて二度とない背中を必死に追いかけていた。
声をかければ止まってくれたかもしれない。
だけどそんな勇気も覚悟もなかった。
父の居場所を突き止めてもなんの意味もない。
あのクリスマスの夜、おなかが大きくなった翔吾さんのお姉さんとマンションの中に入っていく父の姿を見た。
そっとそのおなかに触れながら、蕩けるように幸せそうな笑みを零して。
あの時の絶望感は決して忘れられない。
だけどもう、今は過ぎたことだと少しずつ思えるようになってきていた。
父母の離婚の原因、そして母の自殺。
父を憎むことで自分を支えてきていた。わたしの心は真っ黒な闇の中だった。
だけど山部のおじいちゃんがその呪縛から解放してくれた。そして翔吾さんがわたしを選んでくれた。
それで十分に幸せを感じることができる。そう思える自分が少しだけ誇らしいような気持ちにさえなれた。
幸せって自分の心が決めるんだってようやくわかった気がするの。
だから、今のわたしは父を恨む気持ちはもう、ほぼない。
**
『特に用はないけど……お昼何食べたかな、と思って』
『今何してた? もう寝てたの? ああ、風呂? ごめんごめん』
わたしはひとりの間、携帯小説を読んだり部屋の掃除をしたりまったりとした休日を過ごしていたから全く心配ないのに何度も翔吾さんは連絡してきた。
何をしているのか聞かれはしたけど、向こうが何をしているかは一切教えてはもらえなかった。
説得が難航しているのかもしれない。そう思ったら怖くて何も聞けなくて。
翔吾さんは穏やかな口調で、わたしのことばかり尋ねてくる。きっとわたしに心配をかけまいとしてそうしてくれているに違いない。
彼の優しさに甘えているだけじゃダメなのに。
翔吾さんが帰ってきたのは、日曜の二十時を過ぎていた。
本当は昼間のうちに帰ると言っていたけど、急遽夕食を食べてくることになり、遅くなったと申し訳なさそうにしていた。
ひさしぶりの帰省なんだから、わたしに気兼ねなくゆっくりしてほしかったし、そんなに恐縮されるとかえって申し訳なくなる。
その日の夜。
翔吾さんはベッドの中で、実家であったことをぽつりぽつりと話してくれた。
専務の娘との見合いの件がなくなった報告の後、いきなり別に結婚したい女性がいると言われて両親が戸惑っていること。
相手がお姉さんの夫の娘であること。
父親は何も言わなかった。けど、母は……。
言葉を濁す翔吾さんの表情は悲しげで、その後の言葉は必要なかった。
お互い仰向けのまま、しばらくそのまま無言の時間を過ごした。
「時間かかるけど、絶対に……待たせてごめんな」
囁くような小さな声が聞こえたから、わたしは横に首を振った。
何度もわたしの頭を撫でる優しい手。
ごめんだなんて言わなくていい。苦しめているのはわたしなんだから。
翔吾さんはいざとなったら親が反対しても一緒になると言ってくれた。
だけどそれはいけないと思ったの。翔吾さんだって本当は祝福されたいはず。
父と翔吾さんのお姉さんの結婚はご両親に反対されたと思う。みゅうちゃんの存在があったからこそ認められたんだろう。
翔吾さんまでご両親から奪うように……反対されたまま一緒になるなんてできないから。
『わたしは、翔吾さんのご両親に祝福されたい。だから一緒に連れて行って』
わたしとの結婚を認めさせるなんて、本当は限りなく不可能なはず。
だけどわたしの無謀なお願いを、翔吾さんは二つ返事で了解してくれた。
最初から説得には一緒に行くと言った。だけど翔吾さんは、それは自分に任せてほしいとわたしに頭を下げたのだった。
説得は難しかったかもしれない。
その状態で直接挨拶に行っても受け入れてもらえないかもしれない。
でも何もしないまま諦めることだけは……もう、したくない。
少しだけ顔を傾けて窓のほうを向くと、カーテンの隙間から入ってくる月の光が今日はなかった。
今日は新月なんだな。そう思いながら目を閉じる。
窓の方に向きをかえると、翔吾さんに後ろから抱き寄せられた。
「こうしてると、ホッとする」
左の肩から首元に、翔吾さんの吐息がかかってびくりと身体が震えた。
こんなにも近くに感じられる翔吾さんの存在。それだけでいい。
こうして一緒にいられることが本当に幸せなことだって心から思えるから。
小さくうなずくと、翔吾さんの頬がすり寄せられて涙が出そうになった。
あいしてる。
心の中では何回でも言えるのに。言葉にするのは恥ずかしいなんて。
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