それから。
すぐに山部のおじいちゃんのアパートを引っ越し、翔吾さんの家に戻った。
おじいちゃんは笑顔で見送ってくれた。何かあればすぐに相談するように、と優しく頭を撫でるのも忘れずに。
このアパートに引っ越して来れて、おじいちゃんに逢えてしあわせだなって心から思った。
クマさんにも感謝の気持ちを述べたけど、それだけじゃ気持ちが治まらない。いつかちゃんと恩返しできるといいな。
翔吾さんの家に引っ越したら、同室で寝るように言われた。
まだ結婚前なのに!? 必死で抵抗したけど、翔吾さんは折れてくれない。
さっさと荷物を自分の寝室に運び、クローゼットにわたしの服を入れてしまったのだった。
この強引さ……ここまでじゃなかった気がするんだけど。
「もう遠慮するのはやめたんだ」
得意げな顔で笑う翔吾さんは悪戯少年のようだった。
つられて笑ってしまうわたしもよっぽどだなあって思う。だけど、もう少しも離れていたくなかったんだ。
寝室に入った途端、後ろから抱き寄せられて向かい合わせにされるとゆっくりと翔吾さんの顔が近づいてきた。
目を閉じていても、翔吾さんの唇の動きがわかる。
なぞるように瞼から頬、そして鼻先に来て唇を塞ぎながら舌を絡め、キスが深められた。
いつまで経ってもうまく受けられないわたしを、翔吾さんは子どもをあやすように笑う。そんなところもかわいいよって。
いつになったら雪乃の舌が進んで俺の中に入ってくるのかな?
それを楽しみにしていると言う。そんなこと、いつかできるようになるのかな……それって自ら求めるってことでしょう。
時間は何十年も、たっぷりある。ずっと待ってる。そう言い加えて。
その日の夜、わたしは翔吾さんに抱かれた。
すごくひさしぶりな気がして、怖かった。また初めての時の痛みが甦りそうな気がして。
だけど、そんな心配は無用だった。
全身をくまなく優しく愛撫しながらゆっくりと慣らされ、なじまされた後にわたしの様子を伺いながら翔吾さんが入ってきた。
その時は息を飲むくらいの質量に一瞬大きな声ををあげてしまったけど。
「力抜いて」
ちゅっというリップ音と共に、瞼に唇を押し当てられると自然に力が抜けた。まるで魔法の呪文。
翔吾さんがそう言うと、それに従ってしまう。
自然に涙が頬を伝う。それを翔吾さんの唇が吸い取りながら、わたしに優しくキスを落とす。
翔吾さんから伝わる温もりがわたしの全身を包む。
それがすごく心地よくて、必死でその広い背中にしがみついた。
「っ……煽るなって」
煽ったつもりなんか全くないのに。
うっすら瞼を開くと、眉間にシワを寄せた翔吾さんが小さな吐息を漏らしながら進んでゆく。
わたしの中、気持ちいい?
訊きたくて、その言葉を飲む。恥ずかしくて、でも知りたくて。
もっともっと翔吾さんで満たしてほしいって思ってしまった。そのさまは自分でも信じられないほど貪欲で、恥ずかしさで顔が熱くなる。
「しょ……ごさっ……」
上から激しく突かれ、翔吾さんの首元に抱きつき自分から唇を重ねた。
びくっと翔吾さんの身体が反応して、動きが緩やかになる。見ると目を見開いてわたしを見つめていた。
すぐに悩ましげな表情に変化し、目が細められる。すごくしあわせそうな、今にも泣き出してしまいそうな翔吾さんを見て、もう一度唇を重ねる。
柔らかい翔吾さんの上唇に、そして下唇に吸いつく。自然に開いたそこに自分の舌をゆっくり進めた。
まるで未知の世界に入るようで少し怖かった。でも、そこは暖かくて。
彼の柔らかい舌のように滑らかに動かすことなんかできず、ただ夢中でその表面、そして裏に自分の舌を伸ばす。
するとくるんと絡められ、ちゅっと吸いつかれた。気づくとすでに握っていたはずの主導権は奪われていて。
喉の奥で声がくぐもる。それだけで翔吾さんに応えているつもり。
それをわかってくれたのか、するりとわたしの口内から舌がすり抜けてゆく。なぞるように上唇と下唇を啄ばむような口づけをされてそこに全神経が集中したような感覚になる。
「も、十分」
何度も手のひらで頬を撫でられ、その温もりにウットリして目を閉じると肩口に翔吾さんの額が押し当てられた。
サラサラの髪がわたしをくすぐるようになびく。
「目をあけて……雪乃」
掠れた翔吾さんの声に、両の瞼をゆっくりと開くと、暗い部屋に月の光が差し込んでた。
ふわふわとすごく小さな光のようなものが飛んでいるように見える。これは何?
両手を伸ばして、その無数の光を掴もうとするけど指の間からすり抜けてゆく。星屑のようにも見えた。
その向こうにぼんやり見える寝室の天井。
少しだけ右に顔を傾けたら、大きな丸い月が見えた。
両脚をさらに抱え込まれ、深く貫かれたその時、びくり、とわたしの身体が跳ねた。
すでに冷静にその光を、月を見れる余裕なんかない。急速に高みに持ち上げられ、目を開けていることもままならない。
伸ばしていた腕でしっかりと目の前の翔吾さんに抱きついたところまでしか覚えていなかった。
**
重い瞼を開くと、すでに明るい日の光がカーテンの隙間から寝室に射し込んでいた。
ああ、もう朝なんだ。翔吾さんがいつの間にかカーテンを閉めてくれたんだ。
何気なく身体に触れると、ツルツルの生地のシャツみたいなのを着せられている。
妙に身体がさっぱりしている感じ。もしかして拭いてくれたのかな?
左横を見ると、裸のままの翔吾さんが心地よさそうに眠っていた。
綺麗な顔……長いまつ毛にすうっと通った鼻筋。しっかり閉じられた唇は薄すぎず厚すぎない。
まるで人形を見ているみたいな不思議な感覚で、手を伸ばして触れるとむにっと柔らかい唇が小さく開く。
人差し指で下唇をなぞると、ぱくんっと咥えられて、仰け反ってしまうくらい驚愕した。
「おっ……起きてたの?」
「起こされたの。寝てるのを触られたら普通起きるよ……何? 朝から誘ってるの?」
「ちっ……違うもんっ!」
ゆっくりと翔吾さんの目が開いて、揶揄るように小さく微笑む。
そういえば、前にみゅうちゃんが泊まりに来てた時、翔吾さんがわたしの唇を割って指を入れてきたことがあったっけ。その時目覚めて同じこと思ってた気がする。
無意識にやってしまった行為だけど、寝ているのをつい触りたくなるのはしょうがないことなのかな……と、正当化してみたら自分がおかしかった。
ひさしぶりに安心して眠れた。そして温もりを感じる朝を迎えられて、わたしの心は満たされていた。
「そういえば、クマのぬいぐるみは?」
「え……あ!」
そっか。記憶がない時、きっとわたしはあのぬいぐるみを抱えていたんだろう。
記憶がなかった時の記憶が曖昧だけど、翔吾さんが気にするくらいだからよっぽどだったのかもしれない。想像しただけで恥ずかしい。
「鞄の中にしまってある……」
「そばに置いておかなくていいの?」
「うん、いいの。忘れて」
「どうして? 大事なものなんだろう? 置いておいていいよ」
優しく問われ、首を横に振った。
あのぬいぐるみのことは触れられたくなかった。
「そっ、それよりみゅうちゃんは元気なの?」
急に話を変えると、翔吾さんの表情が真面目なものに変わった。
「さあ、最近連絡とってないし寄越すなって言ってある」
「え? どうして?」
「そんなのより、雪乃はいつの間に真奈美と仲良くなったの? 連絡取り合ったのはやっぱりあの日の封筒?」
お互い横向きで顔を見合わせながら、左頬をそっと撫でられる。
いきなり話をかえられてしまった。あまりみゅうちゃんのことを話したくないのかもしれない。わたしが辛い思いをすると気を遣ってくれているようにも思えた。
翔吾さんの話にうなずくと、不思議そうな表情で首をかしげた。何かが納得できないらしい。
「なんで真奈美は雪乃を湯田専務の部屋に呼んだのか? 俺のためって言ってたけど全然俺のためじゃないし。むしろ俺のためなら呼ばないでほしかった……あー、でも雪乃がいたからこそ早く決着がついたのか……うーん」
なんだかブツブツ言ってる。
しかも眉間にかすかなシワを寄せて、そんなに思いつめること?
「わたしが行ったら嫌だったの?」
「そうじゃなくて! 俺のせいでああいうことになったし、雪乃を巻き込みたくなかったってか……自分で解決したかったって言うか。結局雪乃には仕事を辞めてもらう選択肢しか浮かばなかったけど、会長のおかげでそれも免れたし、それは雪乃のおかげで……情けないな。ごめんな」
ガバリと勢いよくベッドから起き上がった翔吾さんが、正座をしてわたしに頭を下げた。
あまりにも唐突なことでビックリしてしまった。何となく自分だけ寝そべっているのも違う気がしてもそもそと起き上がる。
おじいちゃんのおかげでわたしは会社を辞めなくて済んだ。
湯田専務にも特別な罰は与えられず、今後はこのようなことがないようにと忠告だけで終わった。
それを翔吾さんとわたしが望んだ。事を大きくしたくなかったから。
営業部へ戻してもらうことはできなかった。
そもそもそれをわたしが望まなかった。そうなったらまわりの人も訝るに違いないし、わたしと会長の関係が社内に漏れる引き金になり得ると判断したからだ。危険因子は少しでも排除しておきたい。
おじいちゃんは人事改革を念頭に置くと約束してくれた。
わたしも少しでもあの部署になじめるよう頑張らないといけない。頼り切ってばかりじゃダメなのだ。
「頑張るから」
頭を上げた翔吾さんの目が力強く訴えかける。
わたしが今思ってた言葉を翔吾さんが口にして不思議な感じがした。
思わず「なにを?」と聞きそうになって口を閉ざす。何となく翔吾さんの決意に水を差しそうで躊躇われたから。
「もう雪乃に寂しい思いをさせない。何回もそう言ってきたのに同じことを繰り返してしまったから信用できないかもしれないけど! 俺を選んでよかったって思えるように頑張るから……だから」
「……だから?」
そんなことを言われてうれしくて涙が出そうになる。目頭が熱い。
それなのに――
「俺を選んでくれて、ありがとう」
子犬のような目でそんなことを言うもんだから、わたしの涙腺は崩壊した。
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