会長とクマさん、そして雪乃の関係を聞いたが、話についていけないまま重役室を出た。
隣で雪乃が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。たぶん呆けてマヌケな顔をしていることだろう。だけどどうにもならない。めまぐるしくことが動きすぎて、頭がパニックしそうだった。
なんと言ったらいいかわからず、苦笑いを向けると雪乃も笑いかけてくれた。
それだけが癒しだった。
「あっ! 海原さん」
急に雪乃が声を上げて秘書室の入口に向かって走り出した。
その先には満足そうに微笑んだ奈美がゆっくりこちらへ歩いてきた。
「うまくいってよかったわね」
「はいっ! 海原さんが教えてくださらなかったら……わたし……」
雪乃の言葉にハッと気づく。
昨日の真奈美から雪乃への手紙は、そういうことだったのか。
俺の行動はすべて真奈美から雪乃に伝えられていたってわけか。
「言っておくけど風間さんのためにしたわけじゃないから。あんまりにも翔吾が情けない顔してるから見てられなくて――」
「わかってます、ありがとうございました」
なんだか異様なまでに和やかな雰囲気になっている。
雪乃のことをよく思っていなかったはずの真奈美が俺たちに協力してくれた。
「私ね、六月で退職するの。だから、置き土産というか……ま、とにかく風間さんには悪いことしたって気持ちも少しだけあるからね」
照れくさそうに笑いつつも少しだけ怒ったような表情を見せる真奈美。
退職の事実に驚いた。だけど不思議はない、彼女は妊娠しているんだから。
これから残り期間で引継ぎをして、真奈美は退職。その後今の彼氏と一緒に暮らすそうだ。
しあわせそうに微笑む真奈美は、今までの中で一番かわいらしく見えた。
「まあ、あなたたちもしあわせになりなさいよ」
そうひと言だけ言い残すと、さっさと背中を向けて秘書課の入口へ消えていく。
それはこっちの台詞だ、真奈美。
ありがとう。君の子どもが無事に生まれてくることと、今後のしあわせを祈っているよ。
その背中に向けて心の中でそう囁いた。
**
その日の仕事が終わったあと、雪乃の引っ越したアパートへ向かった。
行くまでに電車の中で聞いていた通りの……お世辞にもきれいとは言えない古臭いアパートでビックリした。
だけど、中は塵ひとつ落ちていない。古そうな床板は多少軋むが、これだけ手入れが行き届いていればまだまだ住めそうな感じだ。
ここの下がおじいちゃん、もとい、会長の別宅? と聞いて無意識に足音を立てないようそっと歩いていた自分がおかしかった。そんな俺を見て雪乃も苦笑する。
部屋の扉は引き戸で、鍵が南京錠だった。
セキュリティの『セ』の字も浮かばない下宿のような造りのこのアパートに雪乃がひとりで暮らしていたと思うと不安になった。第一外から鍵をかけられてしまったら出られないじゃないか。
室内は丸いちゃぶ台がひとつ、窓際に小さなテレビが置かれていた。
遮光の黄色いカーテンと、ちゃぶ台の下のラグが同じ色で少しばかり部屋の雰囲気を明るくしてくれているように思える。
これらのものは全てクマさんが用意してくれたと言う。俺の代わりに雪乃を守ってくれたクマさんには感謝してもしきれない。
こうまでしてあげたい、そう思わせる何かが雪乃にはあるんだろうと思っていた。
それこそ山部会長が言う、雪乃の不思議な魅力なんだろう。
お茶を淹れると玄関の横に備えつけられている小さなシンクの方へ歩いていく雪乃を後ろから抱きしめると、身体を強張らせてゆっくりとこっちを振り返った。
雪乃の額に頬をすり寄せると、すごく安心して力が抜けてしまった。疲れも全て吹っ飛ぶ感じがしてほっとしてしまう。
「翔吾さん?」
「お茶いらないから……しばらくこうさせて?」
小さくうなずいた雪乃が俺の腕に手を添える。それだけでじんと胸が熱くなった。
もう二度と手を離さないと決めていたのに、離してしまった自分が許せなかった。だけど、雪乃はこうしてもう一度俺の手を取ってくれた。
こんなに頼りない俺を信じて、好きだと言ってくれた。
「ごめん、雪乃。ずっと不安な思いをさせてた」
「……ううん、わたしこそ、記憶のこと言えなくてごめんなさい。本当は結構前に戻ってて、でも言い出せなくて」
申し訳なさそうに俯く雪乃の身体から手を離すと、彼女の手も自然に離れた。
両肩に手を置いて、自分と向き合わせるけど俯いたまま顔を見せようとはしてくれなかった。
そっと雪乃の後頭部に手をまわして、自分の胸に抱き寄せるとぱっかりと割れたつむじが見える。それさえも今は愛しい。
「記憶、戻ってよかった。本当に安心した……だからそれは気にしなくていい。それより、これからもっと雪乃は辛い思いをするかもしれない」
「つらい、こと?」
「うん、お父さんのこととか……避けては通れないかもしれない。だけど、俺が守るから……だから、結婚してほしい」
思いきり顔を上げた雪乃の目が大きく見開かれた。
その瞳が潤んでいる。唇が小さく震え、今にもその目から大粒の涙が零れ落ちてきそうだった。
くしゃりと顔を歪め、唇をきゅっと締めた雪乃が一回だけ大きくうなずいてくれた。
これ以上の喜びはない。
ようやく、ようやくここまで来れた。
つき物が落ちたかのように緊張から開放されて、膝から崩れ落ちそうだった。
だけどそんなことをしたら俺の全体重が雪乃にかかってしまう。そんなことはできないと必死で堪えた。
「翔吾さん、目、潤んでます」
「え? 嘘だ」
「本当です。ほら」
雪乃の小さな白い手が俺の頬を包み、親指の腹で下瞼を軽く拭う。
見せられたその指は、確かに光っているように見えた。
情けない。うれしさのあまり涙が出るなんて。
「ありがとう、翔吾さん。わたし……」
「ありがとうはこっちの台詞。もう、絶対に離さないから。いっぱい不安にさせてゴメンな」
少しかがんで雪乃を抱き寄せると、俺の首筋に両腕を回してしがみついてきた。
ああ、ずっとほしかったものがようやく俺の腕の中に。そう思ったら必死にその背中をかき抱いていたんだ。
その日は雪乃のアパートで、小さな一組の布団でくっついて眠った。
仰向けになると飛び出してしまうので、二人で横向き。膝を曲げないと足が飛び出てしまうくらいだった。
だけど雪乃の温もりがじんわりと俺の身体も心も温めてくれて、いつもより少し冷える夜だったのに暖かかった。
大事なことってこういうことなんだな。
なにがなくても、心さえ満たされていればそれで十分なんだって。
空腹は満たされないかもしれないけど……何があっても雪乃だけは食べさせていこうって急に思えて笑ってしまった。
俺の笑いで吐息がかかったのか、雪乃がくすぐったそうに身をよじる。
だけどグッスリ眠っているその表情はとっても穏やかに見えたんだ。
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