それから。
山部のおじいちゃん、もとい、山部会長が「この件は全て預かる」と告げ、湯田専務は苦虫を噛み潰したような表情でうなずいていた。
悔しそうに項垂れるその姿をわたしと翔吾さんはただただ呆然と見ていることしかできなくて。
山部会長のやや後ろに立つクマさんはいつもと別人のような、真剣な面持ちで湯田専務を見下ろしていた。
話が終わると、山部会長とクマさんがソファ付近に立ち尽くしていたわたし達のほうを見た。
すっかりわたし達の存在を忘れていたようで、少し驚いたふうの表情で。
「ついてきなさい、雪乃。それと、君も」
わたし達にそう声をかけたその表情は、いつも縁側で見る山部のおじいちゃんの優しいものになっていた。
隣に立っていた翔吾さんの背筋がピンと伸びた。それだけでいつもより背が高くなったような気がする。
翔吾さんはその後、不思議そうな顔でわたしを見てから、とっても小さい囁くような声を漏らした。
「なんで会長が雪乃を呼び捨てするの?」
「それは……」
「ふたりとも早く。この人、気が短いよ?」
クマさんが冗談交じりにそう言うと、山部会長が『こほん』と小さく咳払いをした。
わたし達に背中を向けたクマさんが山部会長の背中を追いながら、小さく肩をすくめる。
さらに後を追うように専務室を出ると、扉の向こうに海原さんが立って山部のおじいちゃんにお辞儀をしていた。その様子はまさに重役と秘書のやり取りだった。
「あ、君。助かったよ。ありがとう。お茶を頼むよ」
「いえ、過分なお言葉、恐れ入ります。すぐにお持ちいたします」
さらに深く頭を下げる海原さん。
山部会長とクマさんが廊下に出て、専務室のさらに奥に向かって歩いて行くと、海原さんがヒョコっと顔を上げてニッコリ笑った。
その笑顔は本当にきれいで、まるで絵本から出てきた女神様のようにも見えた。
通されたのは最奥の会長室。
専務室と広さは大差ないけれど、デスクもチェアもさらに高そうなものが置かれている。
「あーあ、つっかれたー。着慣れないもの羽織ると肩凝るなあ」
スーツのジャケットを脱ぎながら会長席の前においてある接客用ソファセットの上座にクマさんがどーんと腰をかけた。
確かにいつもの藍色の作務衣姿とは全くイメージが違う。ちゃんとしたって言ったら失礼だけど首から下はサラリーマンに見えなくもない。
ただ顎のまわりに蓄えた髭はそのままだから、やっぱりサラリーマンではないだろう。
いつもタオルでハチマキ風に縛った頭は、ゆるいウェーブがかかっていてワックスで後ろに流すように固めてある。
わたしと翔吾さんは入口付近でどうしたらいいかわからず立ち尽くすだけ。
会長席に座るいつも腰がだるそうにしているおじいちゃん。まるで別人。背筋ピンと伸びてるし。
「なーにそんなとこで立たされたみたいに固まってるんだ。座れ」
おじいちゃんがいつもの口調でクマさんが座っているソファの方を指差す。
ほっほっほと言う笑いはいつものもので、少しだけ緊張の糸がとけた。
「雪乃ちゃんはここ、雨ちゃんはボクの正面に座って」
クマさんに言われた通りに、わたしは会長席の真向かいの席、翔吾さんは扉側のソファに静かに腰をかけた。
しばらくすると、海原さんじゃない二十代後半くらいの秘書さんがお茶を四つ運んで来た。その人は日本人形風の美人で、この会社の秘書室の美人率の高さを改めて実感させられた。
秘書が会長室を後にすると、おじいちゃんがわたしの目の前のソファにゆっくり腰掛けた。
その面持ちは優しいんだけど、品定めするような鋭い目であたしと翔吾さんを交互に見回している。
「あの……おじい……いえ、会長?」
「おじいちゃんで構わん」
「はあ? じいちゃん、雪乃ちゃんにおじいちゃんなんて呼ばせてたんだ?」
ははっとクマさんが堪えきれないって笑いを零すと、おじいちゃんは「むぅ」っと低い声をあげ、苦虫を噛み潰したような顔つきになった。
あれ? クマさんもおじいちゃんをじいちゃんって呼んでる。
あのアパートはクマさんのおじいさんの所有物でと聞いていた、と、いうことは!?
「あ、うちのじいちゃん。母方のね。だから苗字は違うけど」
クマさんがさらりとそう言ったので、疑問が確定に変わった。
山部のおじいちゃんがクマさんのおじいちゃんで、この会社の会長で、クマさんは会長の孫で……。
頭がパニックしそうだった。
わたしよりも何がなんだかわからないのは翔吾さんのほうだろう。
目を真ん丸くして、おじいちゃんの痛いくらいの目線を一手に引き受けている。
「見た目はいいが、中身はどうなんだ……」
斜め四十五度くらいに顔を傾けて、翔吾さんを睨むように見据えるおじいちゃん。
その対応にクマさんが大笑いすると、一瞬で空気が穏やかになった。
クマさんがここにいてくれて本当によかったと思う。
「中身もいいと思う。雪乃ちゃん一筋だし」
「一筋の男が別の女との見合いなんか受けるもんか」
「まあまあ、そんなに目くじら立てるなって」
まるで子どもの言い争いみたいなおじいちゃんとクマさんを見て、思わず笑ってしまった。
翔吾さんはどうしていいのかわからずただただオロオロしている。
状況が把握しきれていないわたしと翔吾さんのためにクマさんが話すかおじいちゃんが話すか軽い口論になり、クマさんが口を開いた。
クマさんは山部のおじいちゃんの孫であること(これはさっき聞いた)
母方の父だから、苗字が違うこと(これも聞いた)
山部のおじいちゃんがこの会社の会長であり、クマさんの伯父、つまりクマさん母親のお兄さんがこの会社の社長なこと。
クマさんもこの会社に就職するよう勧められていたけど、昔からお店を出したかったからとあっけなく断ったこと。
この会社の社員がユズリハ(自分のお店)に来て会社の愚痴やらなんやらを零すのを楽しく聞いていたとか。
そして、最重要な事実。
翔吾さんが湯田専務の娘とお見合いすることになったこと。
それが本人の意志と関係なく勧められていること。
それらをクマさんがすべて会長である山部のおじいちゃんに伝えていた。
それを知っていたから、さっきのわたしの電話でおじいちゃんがすぐに来てくれた。
なにもかもクマさんのおかげだったんだ。
ありがたいとしか言いようがなく、多分今のわたしはすごく情けない顔をしていると思う。
そんなわたしを見て、クマさんはうれしそうに目を細めた。
**
あのアパートは昔、おじいちゃんが建てたもので、おばあちゃんとの想い出がいっぱいだから壊したくもないし出たくないとごね、別宅扱いになっているという。
だから夜、おじいちゃんはあの部屋にいなかった。あの部屋には必要最低限のものしかない理由がようやくわかった。
わたしが住ませてもらっている部屋が空いたのも本当に偶然。
わたしが住む場所を探していたからちょうどいいと思ったとクマさんは笑いながら種明かしをした。
何もわかっていない翔吾さんだけが落ち着かずキョロキョロとわたしとクマさんの顔を交互に見つめている。
「じいちゃんに雪乃ちゃんの紹介をする前に二人が知り合いだったのは計算外だったけどね。これにはボクの方がビックリしたよ。しかも本当の孫みたいにかわいがってるし……」
「当たり前だ。言うことをまともに聞かないおまえよりよっぽどいい。必要な時だけ擦り寄ってきおって」
「あっ、ひっでえ。雪乃ちゃん、こんな頑固じいさんによくつき合ってるよ」
さっきから子どもの喧嘩のような言い争いをするふたりに堪えていた笑いが漏れてしまう。
それは違う。わたしがおじいちゃんにつき合ってるんじゃなくて、おじいちゃんがわたしにつき合ってくれてたの。
わたし、いつの間にかおじいちゃんに引き込まれて当たり前のように部屋に通い詰めていた。すぐにおじいちゃんが大好きになってた。
おじいちゃんはわたしの――
気がついたら目頭が熱くて、涙が流れ落ちていた。
そんなわたしを三人が驚いた目で見つめている。
「あ、やだ……ごめんなさ……」
目の前に差し出されたのは翔吾さんの見覚えのある茶色のハンカチ。
それを手にとってぐしぐしと顔を拭いていると、おじいちゃんが口を開いた。
「雨宮くん、だったな。この通り雪乃は泣き虫でへそ曲がりで素直じゃなくてどうしようもない娘だけどな。今、言った通り、本当の孫以上に、孫のように思っている大事な子だ。だから――」
おじいちゃんを見ると、翔吾さんに頭を下げていた。
「しあわせにしてやってくれなんて言わない。ただ、この子が寂しい時、傍にいてあげてほしい。そして、いつでもこの子の味方でいてやってほしい。それだけだ。これ以上の孤独を、この子に与えないでくれれば、もう言うことはない」
ぶわっと再びわたしの目から涙が溢れ出した。
それはすごい勢いで、まるで泉のように止め処なく溢れ続ける。
孤独なんかじゃないのに。
おじいちゃんがいてくれただけで、わたしは寂しくなんかなかった。
「しあわせにしてもらおうなんて思うな。雪乃よ。このじいが一番最初に言った言葉を憶えているか? おまえはきっとしあわせになれるって」
おじいちゃんの目許が潤んでいるようにも見えた。
だけどその顔は険しくて、まるで幼い子に大事なしつけをしているようだった。
最初のおじいちゃんの言葉を記憶から手繰り寄せる。
確かにおじいちゃんはわたしにそう言った。その時違和感を覚えたことも。
『しあわせになる』じゃなくて『なれる』ってどういう意味だろうって不思議だった。
「しあわせは自分の力でなるもの。そういう意味を込めて言った。この男とならしあわせになれる、そう思うのは簡単だ。だけどその逆はどうだ? この男と一緒になって不幸になったとしても、共に乗り越えていこうと思えるか?」
目の前に置かれた湯呑みを持ったおじいちゃんが、それに口をつけた。
ずずず、と小さく音を立てる飲み方はいつものもの。だけどそれがおじいちゃんで。
「そんなの……わかんない……そうありたいとは、思うよ、でも――」
湯呑みから口を離さずおじいちゃんがわたしを見た。その眼が鋭く光る。
間違ったことは言っていないつもり。
今はそう思ってる。翔吾さんが一緒なら、辛くても乗り越えていけるって。でもそんな先のこと――
「あ」
思わず声が出てしまった。
永遠の愛についておじいちゃんと話した時のことを思い出したから。
きっと、父と母も同じように思って一緒になったんだろう。
ううん、父と母だけじゃない。結婚している人すべて、そういう想いがあったのだと思う。
だけどどこかで歯車が違って、一緒にいられないって気持ちが芽生えてしまった。
それを誰が責められる?
母が命を絶ったのは、父の責任でもある。それは絶対に曲げられない。
でも、もしかしたら父の心変わりには少なからず母にも原因があったのかもしれない。それはわたしにはわかりえない。
だけどあの時はそうは思えなかった。ただ父が憎かった。
全てを父の所為にした。そうじゃないと救われない気がした。恨み続けて生きていくこと、それだけで自分を支えてた。
もしかしたら、わたしにだって、もっとできることがあったのかもしれない。
そして母にだって、もしかしたら……もう、時間は戻せはしないけど。
永遠の愛があるかどうかなんかわからない。だけど大事なのは、今。
おじいちゃんはこのことが言いたかったんだ。
そしておじいちゃんは未だにおばあちゃん以外の人を好きになったことはない。
わたしに夢を与えることも決して忘れていなかった。
急にがんじがらめに縛り付けられていた心が開放されたような気がした。
硬い鎖が解けて、昇華していくようなそんなすがすがしい気持ち。
「おじいちゃん……わたしの過去の呪縛を解いてくれて……ありがとう」
素直にお礼を言うと、おじいちゃんは照れくさそうに頭を掻いた。
「礼を言われることなんか何もしとらん。それにワシはおまえの過去なんかなーんも知らんのじゃ。きっと辛いことがあったんだろうなくらいしか」
「え?」
クマさん、おじいちゃんにわたしの過去を説明したんじゃないの?
何がなんだかわからなくて、クマさんを見ると小さく首を傾げて笑ってた。
「やだなあ。雪乃ちゃん。ボク訊いたことは誰にも言わないって約束したでしょ? ボクがじいさんに頼んだのは、あのアパートを借りることと、専務の娘と雨ちゃんの縁談話をなんとかしてほしいってことだけだよ」
「……ええっ!?」
たったそれだけ? っていうか、それが大事なことなんだけど。
おじいちゃんはわたしのことを何も知らないのに、優しく受け入れてくれていたんだ。
もちろんクマさんの紹介で入居したってことくらいは知っていたからだろうけど……。
わたしを見るおじいちゃんの目がいつも以上に優しくなっていることに気づいた。
「雪乃は不思議な魅力のある娘だ。君もそう思うだろう? 雨宮くん」
「――ええ」
恥ずかしげもなく即肯定する翔吾さんを見ると、穏やかな表情をしていた。
心から安心しきったような、そんな笑顔。
満足げに細められた双眸、自然に上がった口角。そして全身からかもし出される空気まで穏やかなものに思えた。
そんな翔吾さんを見て、わたしも心から安心したんだ。
「雪乃がずっとこのじいの傍にいると言ってくれた時、正直うれしかったんだがなあ……だけどとうとう手離す時が来たか。早かったな」
ふぉっふぉっと満足そうに笑うおじいちゃんの顔が皺だらけになる。
大好きな笑顔だった。
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