空色なキモチ

□ 満月の夜に見る夢は □

満月の夜に見る夢は 第6章 第80夜 事件

 
 だけど翌日に俺の考えが覆された。


 出勤すると、頭を抱えた南雲係長がすでにデスクに座っていた。
 いつもこんなに早くいることはないのに。時計を見るとまだ八時半前だった。


「おはようございます、南雲係長。今日は早いですね」

「雨宮くんを待ってたんだ。君に話しておこうと思って……ずっと悩んでいたんだけど」


 神妙な顔つきの南雲係長に不思議な感覚がした。
 どちらかと言えば冗談を言って部下を笑わせたりからかったりするタイプなのに。
 こんな姿を見たのは初めてかもしれない。


 そのままオフィスを出て、非常階段の踊り場に連れて行かれた。
 あまり非常階段を使う職員はいない。ここを通るのは掃除の人がほとんどだ。

 立ち聞きされない場所と言ったらここが一番最適なんだろう。暗いけど。


「風間さんの異動のこと……黙ってるつもりだったんだけど……」


 一応警戒してか、まわりに人はいないけどヒソヒソ声で南雲係長が話を始めた。
 雪乃の異動のこと?


「彼女の辞令が出た日、先に君に教えたろ? あの時言おうか迷っていたんだけど、なかなか言い出せなくて……実は人事部のほうにはまだ風間さんの異動希望は出していなかったんだ」

「――――え?」


 言ってることの意味がわからず、つい聞き返してしまった。
 話の腰を折るつもりはなかったのに。南雲係長の手が俺を制する。


「新入社員が入ってくる間際に風間さんから異動希望が出されていたのは本当なんだ。で、課長にも話は通したんだけど、そこで話はストップされているはずだったんだ。彼女の辞令が出たあとに課長にも確認したけど、やっぱり部長には話していないと言われた。それなのに……」


 ……どういうことだ?

 つまり、雪乃の異動希望はまだ人事部に伝わっていないはずなのに異動させられたってことで。
 やっぱり作為的にされた異動だったってことなのか。

 あの辞令が出る前に南雲係長がぼそっとつぶやいたひと言を思い出す。


『彼女は異動願いを出していた……だけど……』


 口ごもる南雲係長に妙な違和感を覚えたのは確かだった。何か言いたそうな感じで。
 その理由があったから口ごもっていた?


 南雲係長は顎の辺りをさすりながら鼻から大きく息を吐き出し、口を開いた。


「風間さんはよく頑張ってくれているし、ウチにいてほしかったんだ。だから、彼女には悪いと思っていたけど人事部には話を通せなかったんだ。課長にも了承を得て止めてもらっていた。それなのに異動させられて。最初は彼女の希望でもあったし、しょうがないと思ったよ。でもやっぱり納得いかなくてさ、昨日あんな姿を見ちゃったからかもしれないけど」


 あんな姿?

 嫌な予感がして南雲係長を見ると、渋い顔をして小さく唸り声をあげた。


「昨日な――」



**


 
 悠長にエレベーターで行こうという気にはなれず、俺は階段を駆け上がっていた。
 

 三階の営業部から八階のシステム管理部までは結構辛かったけど、苦にならなかった。
 むしろエレベーターを待つ時間がもどかしくなりそうだったからあがった息を整えず、非常階段からフロアに入る。

 そこはシステム管理部のガラス張りのオフィスの前。
 中を覗くけど雪乃の姿はなかった。時計を見ると、九時を十分ほど過ぎている。始業時間が過ぎているのに雪乃の姿がないのは不思議だった。

 とりあえず中の人に訊いてみようと思い、その入口の前に立つ。
 システム管理部の自動ドアが開くと、その傍の席の女性社員が驚いたような目でこっちを見た。
 あまり他部署の社員が訪れることはないのだろうか?
 一度目を逸らされたけど、構わずその女性社員の傍に寄った。


「すみません。営業部からこちらに配属になった風間雪乃さんに会いたいんですけど、今どこにいるかわかりませんか?」

「えー……ここにいないならわからないです。たぶんそんなに長く席を外すことはないと思うんですが……」

 
 オフィスを見回すようにして雪乃の姿を探してくれたようだが答えは得られなかった。
 だけど長く席を外すことはないのなら、おそらくトイレとしか考えられなかった。
 その女性社員に一礼して、俺はシステム管理部を出た。


 そのままフロアのトイレに向かうと、化粧の濃い女性社員が三人笑いながら出てきた。
 仕事が始まってる時間なのに急ごうともせず、ゆっくりと歩きながら大声で笑うさまは社会人のものではない。つい嫌悪感を抱いてしまう。

 
「あーすっきりした」

「まったく、あんなことして……やりすぎじゃないの?」

「いい気味よっと……」


 正面から俺が歩いてくるのに気づいたらしい女性社員三人は慌てたように口をつぐみ、急に静かに歩き始めた。
 俺とすれ違った後、いきなり後ろでヒソヒソと話し始める声が聞こえた気がして、振り返ってみるとその三人はこっちを向いていて「きゃっ」と小さな声をあげ、足早に去っていった。

 なんだ……? 今時の女性の考えていることはさっぱりだ。

 雪乃とは全く違うタイプ。遊び慣れた感じのする三人組。
 一般的に見れば魅力的な部類に入るんだろうと思う。大学時代仲良くしていた女の子達も雪乃とは真逆の、今すれ違った彼女達のようなタイプだった。

 俺は雪乃を姉のマンション前で見つけた時から気になっていたはずなのに、わざと彼女のようなおとなしめの女の子に目を向けないようにしていたのかもしれない。

 彼女のような男慣れのしていない女の子は苦手だった。
 何となく穢してはいけないような気がした。だから大学時代に告白して来た子のことも受け入れられなかったのかもしれない。

 だけど今は――

 
「……っく……」


 女子トイレの前に着くと、中から妙な声が聞こえてきた。
 まるで泣くのをこらえているような嗚咽のような声にドキリと胸が締め付けられる。

 さすがに女子トイレの中に入るわけにいかず、でも中の様子が気になってまわりに人がいないのを確認して覗くような体勢を取る。

 小さな、掠れた声が耳に届いた。


「……翔吾さんっ」


 それは間違いなく雪乃の声だった。
 中で俺の名をつぶやき、悲しげにすすり泣くその声。
 全身の神経が駆り立てられるようになった感覚がして、躊躇わずに俺は女子トイレの中に足を踏み込んだ。


 全身びしょ濡れの雪乃が洗面台に両手をついて俯き、落涙している姿を見てカッと頭に血が上った。
 まさか、さっきの三人に……?

 スーツの上着を脱いで、その肩にかけてやるとビクッと身体を震わせた雪乃が俺を驚きの目で見上げた。
 その眼差しはユラユラと揺れ、大粒の涙が頬を滑り落ちる。


「しょ……ごさ……」

「なんでこんな姿に……何があったんだ?」

 
 雪乃の両肩を抱いて自分のほうに向き合わせると、首を振って俯いてしまった。
 俺から目を逸らして、彼女が離れようと身をすくめる姿にさらに胸が痛む。


「なにも……それより、ここ女子トイレ……」

「なにも? こんな状態でよく言えるな?」


 目の前の雪乃を抱き寄せると、びくんと身体を強張らせて首を振った。


「濡れちゃう……翔吾さん、離れて」


 俺の腕を離させようとして、小さくもがくけどその身体に力は入っていない。
 もう身も心も弱り果てているとしか思えずさらにきつく抱きしめた。

 こんな小さい身体で、ひとりで抱えて堪えて……かわいそうな思いをさせた。


 自分が一番傷ついているような気がしていた。
 だけど、その時気づいたんだ。そのきっかけは雪乃のひと言だった。
 この状態で、俺の名を呼んでくれたこと。自惚れなんかじゃない。彼女には俺しかいないのに――

 申し訳ない気持ちで押しつぶされそうだった。


「雪乃、こんな状況で、仕事続けたい?」


 濡れた髪を指で梳いて、耳元で小さく囁くと「えっ?」と小さな声が漏れた。
 頭をそっと撫でながら抱きしめる腕に力をこめると、彼女の身体から完全に抵抗がなくなった。

 その代わりに声を殺してすすり泣くから、俺も泣きそうになってしまったんだ。
 





 雪乃を更衣室に押し込み、内線電話で彼女の上司のデスクに連絡を入れて早退させる旨を伝えた。
 やる気も気にする様子もなさそうな上司からは「わかりました」とひと言だけ返って来た。
 
 自分の部下の心配もしない……見て見ぬフリをする上司なんて最低だ。
 腹立ち紛れに受話器を乱暴に戻した時、雪乃がゆっくり更衣室から出てきた。
 制服の替えはあるけど、ドライヤーがあるわけじゃない。雫は落ちない程度に拭かれていたが、髪はまだ濡れたままだった。


「寒くない? 今日は早退した方がいい」

「いえ……仕事がたまってしまうから」

「雪乃、仕事より自分のことを心配するんだ。さっきも言ったけど、こんな状況で仕事を続ける意味ある?」


 怪訝な顔で俺を見上げて小さく首を傾げる雪乃の唇は青ざめていた。
 血の気の引いたその表情は今まで見た中で一番辛そうだった。
 きゅっと唇を真一文字に締めて、何度も目を瞬かせる。


「意味がわからない……」

「難しく考えなくていい。雪乃の素直な気持ちを聞かせて」

「素直なって……」


 戸惑い続ける雪乃が少し震えていることに気づいた。


「じゃ、率直に訊く。仕事と俺、選ぶならどっち?」

「……なにをっ?」

 
 今まで青ざめていた雪乃の頬がすっと朱色に染まる。
 動揺を隠しきれず、口をパクパクさせたまま絶句してしまった。

 普通、男がこんなことを聞かないよな。立場が真逆だろう。おかしくて自嘲してしまう。
 だけど雪乃は本当にわけがわからないといった顔でオロオロするだけだった。


「記憶が戻っているのはわかっている。それに、俺が湯田専務の娘と見合いしたことも知っているんだろう?」

「そっ! それは……」


 目が飛び出すんじゃないかと思うくらい驚いた表情をした雪乃の口から出たのはその言葉だった。
 だけど二の句が継げずにに気まずそうに目を逸らされる。


「だからあの日曜日、泣いてたの? 全部教えて。雪乃の気持ちを包み隠さずに」


 雪乃の両肩に置いた俺の腕を彼女が掴んでワイシャツの袖をぎゅっと握りしめた。
 その手は小さく震えていて、俯いた途端右の頭頂部のつむじがくっきりと見えた。
 ああ、雪乃だと思ったら安心してしまって俺は力が抜けそうだった。

 雪乃の小さな声が、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。


「だって……専務の娘さんと結婚した方が幸せになれる……それに、わたしのワガママで終わりにしたのに……今さら……」

「今さら?」


 顔を覗き込むと頬を真っ赤にして泣くのを堪えているのがわかった。
 ぎゅっと目を閉じて涙を流さないようにしているようだけど、目尻がすでに濡れている。


「今さらっ……すっ、好きだなんて――」


 口ごもる雪乃の声を聞いて、全身が熱くなった。
 もちろん、怒りではない。
 
 胸から喉許にかけて熱いものがせりあがってくる。今まで堪えていた思いが全て感情のままに押し寄せてくる気がした。


 雪乃の後頭部に手をまわし、勢いよく自分の胸に埋めた時「ぶっ!」と小さな声が聞こえた。きっと鼻を打ったんだろう。
 濡れた頭をそっと撫でて、その頭頂部に唇を押し当てる。湿った髪からうっすらとシャンプーの香りがした。


「俺も」


 小さく雪乃の身体が震える。
 その小さな身体をぎゅっと抱き寄せて、自分の思いを告げた。


「俺も雪乃が好き。雪乃しか見えない。雪乃としか一緒にいたくない。雪乃じゃないとダメなんだ。湯田翔吾になんかなりたくない。雪乃が雨宮雪乃になりたくないのなら……俺が風間翔吾になる」


 目をまん丸にした雪乃が俺を見上げた。
 

「苦労をかけると思うけど……俺を……選んでほしい」

 

**



 ――非常階段で南雲係長から聞いた話に愕然とした。


『昨日な、システム管理部の同期に「一緒に昼を食いに行こう」と誘いに行ったら、風間さんが女子社員に怒鳴られているのを見てな……昼休みもなくひとりで仕事させられてたんだ。悲しそうな背中を見てるのが辛くて……ありゃいじめだろうなってすぐにわかった。で、同期に訊いたら誰もが一度は通る道だからと見ないフリなんだよな。女の争いにしゃしゃり出ればさらに風間さんが辛い目に遭わされるだろうって結局見て見ないフリをするしかないそうだ』


 雪乃が新しい部署でいじめられている。
 それなのに、雪乃は友達ができたとか仕事は楽しいとかやりがいがあるだなんて嘘をついていた。
 俺に心配をかけないように……そう言ったに違いない。俺のためだけに。


 その時、ユズリハでクマさんが言ってたあの言葉が急に甦った。


『雪乃ちゃんは、自ら身を引いたんだ。雨ちゃんの幸せを願って』


 そうじゃないって俺は言った。
 雪乃のことが好きで誰よりも彼女のことを理解しているつもりだったのに、クマさんのほうがよっぽどわかってた。

 俺のために……雪乃は――


 そんな辛い目に遭ってまでこの会社にいる必要はない。
 雪乃が仕事より俺を選んでくれるのなら、今すぐにでも退職させようと思った。

 晴花との縁談を断ることによって俺もこの会社にいられなくなるだろう。
 そして再就職するにしても湯田専務の妨害が入ると思う。

 それでも俺は雪乃と一緒にいたい。

 しばらくは貧乏暮らしになるかもしれない。
 でも雪乃がいてくれれば、俺はそれでいい。



**


  
 俺の背中にそっと雪乃の手がまわされた。
 その手が暖かくて心がほんわかした。

 俺がずっとほしかったもの。


「わたしで、いいの?」

「雪乃がいい。雪乃じゃなきゃだめなんだ」


 少し間を空けて、雪乃の頭が小さくうなずいた。
 それだけでもう何もいらないと思った。


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Date:2013/05/02
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Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学

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