俺が幼稚園の時、この町に引っ越してきて一番最初に仲良くなったのが麻衣だった。
確か三歳か四歳くらいの時だったと思う。
ウチの二軒隣の子だということは知っていた。送迎バスに一緒に乗るから。
麻衣は誰とでも仲良くできる子で、常に友達がたくさんいた。それは男女問わずでいつもニコニコしていて楽しそうだった。
慣れない幼稚園で友達もいない俺は、椅子に座って本を読むのだけが楽しみだった。
本と言っても動物図鑑か、動物が主人公の絵本ばかり。
時々外で遊ぶみんなを見て、本を読み続ける。それしかすることがなかった。完全に孤独なひとりの世界。それでいいと思っていた。
そんな時、声をかけてきたのが麻衣だった。
「こーへーくん? いっしょにあそぼ」
麻衣は俺の膝の上に置いていた本に両手を乗せてきた。まるで『待て』をしている犬のような状態で床に膝をつき、俺の顔を覗き込んでいた。
その時の麻衣の口の周りには、済んだばかりのおやつの時間に食べたババロアがついていた。それがおかしくて、俺はつい笑ってしまったんだ。
きょとんとした麻衣が『ん?』と首を傾げて再び微笑むのがかわいくて、俺は指でそのババロアを拭って舐めた。それは少し酸っぱい味がした。
さっき自分が食べたババロアとは違う味、そして麻衣のピンクの唇の端が白くなっているのを見てもっと舐めたくなった。
俺は両手で麻衣の頬を包み、固定してその唇を舐めた。
それはウチの庭によく出入りしていた猫の真似事だった。
仲の良さそうなトラ猫と三毛猫が日向ぼっこをしながらお互いを舐めあっている姿をよく見ていた。片方が舐めてやるともう片方が気持ちよさそうな顔をする。
それは人間でも同じような気がしたんだ。
びくんと全身を強張らせた麻衣は身を引こうとした。だけど俺の力のほうが強かった。
何度もその唇を舐めると、麻衣は目をパチクリしたままじっとしていた。その時の麻衣の顔は今でも忘れられない。
甘酸っぱい唇は柔らかくて、何度も舐めて吸いついた。マセたガキだったと今でも思う。
それがキスという行為だと知るのは、もっともっとずっと先のこと――
それから俺は麻衣と仲良く遊ぶようになって、自然と友達も増えた。
だけど気づくと俺は麻衣の後ばかりを追いかけていた。
麻衣がいれば麻衣にくっついて麻衣がすることで遊ぶし、その他の友達は麻衣に付随するものでしかなかった。
救世主が現れたような、そんな気がしていた。
麻衣がいるから幼稚園に行くのが楽しかったんだ。
麻衣のおかげで俺の世界は一変したように思えていた。
だから麻衣が幼稚園を休んだ日は寂しくてしょうがなかった。
そんな日は、まるで自分の中がどしゃ降りの雨の日のような状態になり、全ての行動や思考をクローズさせてしまう。
他の友達に誘われても絵本を読むことを選んだり、先生に呼ばれても返事もせずひとりの世界に入り込むような根暗な子どもだったのだ。
だけど不思議と孤独感はなかった。
明日になれば麻衣が来る。それだけで十分だった。
俺の世界は一変なんかしていなかった。麻衣がいなければ何も変わらないのだから……。
俺はずっと麻衣が好きだった。
ずっと麻衣と一緒にいたいと思っていた。麻衣がいればそれでいいとさえ思っていた。
だけど麻衣は違った。
***
小学校高学年になると、麻衣は俺を避け始めた。
声をかけようとするだけで席を立ったり、目も合わせないようになってしまった。
小四までは一緒に学校に通っていたのに、いきなりそれもなくなって外で会ってもぷいっと顔を逸らす。
麻衣に嫌われることをした?
自覚はなかったけど、もしかしたら知らないところで麻衣が怒るようなことをしたのかもしれない。
どうしたら麻衣は機嫌を直してくれる? いろいろ考えたけど、避けられる理由は何も浮かばなかった。
麻衣と一緒にいたい気持ちを押さえて、サッカーや野球に誘ってくれる友達と遊んだ。
教室でも男友達とつるむようになり、休み時間にバカ話をしていると、女子がひとり俺に話しかけてきた。確か日直の仕事のこととかそんな内容だった。
それなのに。
「おまえ、航平のこと好きなんだろ? できてる」
クラスメイトの真治がそんなことを言いだした。声をかけてきた女子は真っ赤な顔をして俯いてしまう。
そして大きい声で『そんなことないもん!』と怒鳴って去って行ってしまった。
あんなふうに顔を赤くする理由がわからなかった。怒りでも顔が赤くなるんだなって思った。
傍にいた男子が揶揄するように大声で笑い出す。
『できてる』の意味が俺にはわからなかった。だけどあまりいい意味じゃないのはその状況を見ていた男友達の様子でわかった。
「なあ、なんでそんなこと言うんだよ? 声かけてきただけで好きっておかしいだろ?」
女子をはやし立てた真治に言うと、今度は俺に揶揄るような視線を向けてきた。
「あ、庇うんだ? 航平もあいつが好き! 両思い! 両思い!」
正直『なに言ってんだこのバカは?』そうとしか思えなかった。
まわりにいた奴らも同じように『両思い!』と手拍子をしながらニヤニヤしている。くだらない。
異性に声をかけるだけで、それを庇うだけで両思いなら俺と麻衣はとっくにそうなっているはず。
そう思って麻衣の席のほうを見ると、表情ひとつ変えずこっちを見ていることに気がついた。
もしかして麻衣は、こうやって俺と噂になりたくないから声をかけないのか? 急にそう気づいて嫌な気持ちになった。
だから俺を避けている。俺のことなんてなんとも思ってないのか……。
そう思ったら悲しくなった。こんなふうに離れられるのなら、昔のままがよかった。
大きくならなければずっと一緒にいたってからかわれたりしないんだろう? だったらずっとそのままでいたかったのに。
麻衣がいればそれでいい。その思いは変わらない。
その頃から俺は男子とも女子ともあまりつるまなくなっていった。
***
中学に入っても相変わらず麻衣は俺を避けていた。
さすがに昔のように麻衣に執着するのもおかしいことなのだろう、そう理解はしていても心の奥では麻衣を求めていた。
麻衣とずっと一緒にいられる世界があればいいのに……。
そうだ、麻衣を閉じ込めてしまえばそこが麻衣の世界になる。
子どもの頃に感じたひとりの世界。そこに麻衣を閉じ込めて、俺だけのものにできたら――
そんな考えが脳裏を過ぎり、さすがに自分が怖くなった。
そもそも俺はなんでこんなにも麻衣に執着するのかわからなくなっていた。
麻衣は幼稚園時代はあんなに快活な女の子だったのに、大きくなるにつれて自然に人を寄せつけないようになっていた。
特定の友達以外と話すこともなかったし、クラスでも目立たない。比較的大人しい部類に入る。
そんな俺も特定の友達以外とはつるまない根暗な男だから人のことは言えないのだが。
だけど麻衣は不思議な魅力を持っていた。
目立たないのに、なぜか男子の目を引く。時々見せる悲しげな瞳や笑顔。それは男の欲を煽るようなそんな色香を感じさせるものだった。
赤い頬も、ぽってりした唇も少し垂れた目尻も黒目がちな瞳も長い黒髪もみんなみんな。
もちろん本人は気づいていないだろうし、自覚もない。だけど――
「水橋麻衣って、かわいいよな」
そう言ったのは、以前俺が女子に声をかけられた時にはやし立てた男、真治だった。
まさか、こいつ幼馴染の俺らを妬んであんなことしたのかと思ったら腸が煮えくり返りそうになる。
すると、一緒にいた他の奴らも同調し始めたのだ。まさかこんなにも麻衣に人気があるなんて俺は辟易した。
麻衣は俺だけのもの。その思いがまた頭を擡げた。
やっぱり麻衣を自分の世界に閉じ込めたい。誰にも見せたくない。
こいつらだって好きな女をそうしたいと思っているに違いない。俺はおかしくない。
こう思うのは当たり前なんだ。麻衣がかわいいから、麻衣がすべて悪いんだ。
俺は自分の思いを正当化するために、麻衣にすべてを押し付けた。
麻衣はかわいい。ドンくさいところも勉強ができないところもすべてにおいて愛しい。
すでに俺は自分の思いにブレーキなんかかけることなく麻衣を思い続けていた。
毎晩、大きくなってからは見たこともない麻衣を裸の姿を想像して自慰をする。
終わったあとは独特の気だるさに加え、いつも虚しい気持ちになるのだけどしょうがない。いつかこの腕に麻衣を抱く時が来る日までの辛抱だと自身に言い聞かせ、ひとりで納得していた。
**
麻衣と同じ高校に行きたかったけど、学力に差があったのが難点だった。
ある程度志望校のレベルを下げることは可能だったが、それでも麻衣の成績では難しいようだった。
麻衣が行けそうなレベルの学校を選び、二者面談で担任にその学校を狙いたいと言ったら、額に手を当てられ「具合悪いのか? 大丈夫か?」と心配されてしまった。
麻衣のいない学校なんて何の興味もない。
困惑した担任に「将来就きたい職業とかないのか?」と聞かれ、獣医と答えた。それは昔から俺の夢でもあった。
将来、と問われ、麻衣と一緒にいたいという気持ちが一番強かったことに改めて気づかされた。
一緒になれることを願って、いい大学を出ておくのもやぶさかでない。
担任も「獣医になりたいのならいい高校に進学しておいた方が大学の獣医学部にも進みやすいから頑張れ」と背中を押してくれた。
そんな単純な考えで、担任に促されるまま県で一番進学率の高い高校を選んだのだった。
そして、年が明けてすぐ。
受験前に俺は奈落の底へ突き落とされることになったのだ。
クラスの女子達が計画した『バレンタイン企画』
クラスの男子全員に渡るようにチョコレートと合格祈願の御守りをプレゼントしようというものだった。
放課後女子だけが教室に残って怪しいと、男子全員で盗み聞きしていた。
そこでクラスで目立つ方の女、美晴が麻衣に突っかかっていった。
「麻衣は航平に渡したんじゃないの? 幼馴染だしぃ」
幼馴染だから、そんな理由で……?
まわりの男子には小さい声で冷やかされた。そんなことはどうでもいい。麻衣の反応が気になった。
幼馴染だからじゃないよな? 俺のこと――
「別に……」
そう応えた麻衣の声が、俺の胸を深く抉った。
麻衣は、俺を選ばなかった。やっぱり小学校から避けられていたのは俺のことが好きじゃないからなのかよ。
その思いから逃れられなくなった。俺はこんなにも麻衣のことを思っているのに……。
悔しくて悲しくて手を痛いほど握りしめた時、入口付近の男子が押されたのか知らないが、教室の扉を勢いよく開けてしまい、女子に立ち聞きしていたのがバレてしまった。
謝罪を求める! と女子が騒ぎ始め、男子全員、教室に入り、詫びることになった。
その時、偶然に麻衣と視線があった。その表情は少しだけ驚いたような、だけどいつも通りなようにも見えた。
脈なし、か。
その事実を認めるのが辛かった。いやだった。
→ NEXT→ BACK
Information
Trackback:0
Comment:0
Thema:オリジナル小説
Janre:小説・文学