「あれ? 今日、髪下ろしてるんだ」
本鈴ギリギリに教室に入ると、隣の席の高梨くんが驚いた表情でわたしを見た。
その机の上には学級日誌が置かれている。そうだ! 今日日直……。
「あ、来るの遅くてごめんなさい……」
その左隣の席に座ると、窓際の高梨くんの黒髪が風に揺れた。
やや垂れ下がった眉をさらに下げて、ニッと細められたそのつぶらな瞳。眼鏡の下に隠れているけど、女の子のようでとっても優しいものだ。
「いいよ。気にしないで。その代わり、二限の現国のプリント取りに行ってもらっていい?」
なるべく高梨くんを見ないようにうなずいて、鞄から教科書を出し、机にしまった。
いつもこうして親切にしてくれる。だから余計に後ろめたい気持ちになるのは、もちろん高梨くんのせいではない。
顔を合わせづらい……勝手にメールアドレスも消されてしまったし、自分のメアドも替えてしまった。いつかバレるだろうなって思うとさらに心苦しい。
高梨くんは何も悪くないのに、航平に悪く思われていて申し訳ない気がする。
もうメールできないって言っておいたほうがいいのかな……繋がらないわたしのメアド登録しててもしょうがないよね。
でも……言いづらいな。
「寝坊しちゃったの? だから髪……」
いつも三つ編みをしているから髪を下ろしてるのが不思議だったんだろう。
たぶん航平がつけた歯型やキスマークがすごいことになってるから慌ててほどいて下ろした。曖昧に何回かうなずいて、会話をやめる。深く訊かれるとボロが出そうだから。
この時期って爽やかな風が吹いていて眠くなる。クリーム色のカーテンがたなびくのとか見てると催眠術にかかったみたいになってしまうんだ。
窓際って少し得した気分になる。
しかも一番後ろの席だから、教室中を見渡せる。廊下側の真ん中辺りの席の航平は机に突っ伏して居眠りをしているようだった。
頬杖をつきながら授業を受けていると伝染したかのようにうつらうつらしてしまう。
朝からあんな目にあったし、身体も心も疲れていたわたしは自然に航平のように机に突っ伏してしまっていたんだ。
その日は結局、終始眠いままだった。
**
放課後。
学級日誌を書き、教室の鍵を閉めて日直の仕事が終わりという時、高梨くんが真剣な顔で訊いてきた。
「ねえ、その首どうしたの?」
思わず耳を疑った。
ふたりきりの教室、まさか聞こえなかったフリをするわけにもいかない。
髪で隠すフリをしてたけど、いつ見えてたんだろう……風で髪がなびいた時か?
「え? なにが?」
「とぼけるなよ。すごい歯型がついてる。それに……」
躊躇うように俯いた高梨くんが日誌を書きながらつぶやくような小さい声で言った。
「キスマークみたいのも見えた……それって、彼氏にされたの? メアド替えたのもそのせい?」
う、もうばれてた。もしかして今日メール送ろうとしてくれたのかな……?
やっぱり前もって言っておいた方がよかったのかな? どう答えたらいいのかわからない。
「ね、無理やりされてるんじゃないの? 相手はウチの高校のやつ? 大丈夫なの?」
今さらだけど髪で左首筋を隠すように押さえて目を逸らす。まともに高梨くんを見れなかった。
だけど高梨くんはこっちに身を乗り出して、必死に問いかけてくる。どうしよう……。
「
水橋さん……僕……」
左肩を掴まれ、ビックリして思わず高梨くんと向き合ってしまった。
眼鏡の奥で光るその目は、欲情した時の航平のように深い色を呈しているように見えた。
「あ……」
何か言わなくちゃ、そう思って口を開きかけた時、大きな音を立てて教室の後ろの扉が開いた。
高梨くんの視線が自然に音のした方へ移る。
「麻衣。副担が呼んでる」
そっちに背中を向けていたけど、それが怒りを孕んだ航平の声だってすぐにわかってわたしは身をすくめてしまった。
目の前の高梨くんは驚いたように丸い目を再度こっちへ向けて、わたしの肩から手を退かす。
すぐに気まずそうに窓際へ顔を背けてしまった。
「早く」
航平が急かすような口調なのは苛立っているせい。副担が呼んでるなんて絶対に嘘。
わたしにはわかる。でも高梨くんはわかってなかった。
「じゃ、僕は日誌を担任のとこ持って行って鍵取って来る」
俯いた高梨くんが席を立って学級日誌を片手に教室の前の扉に向かって行った。
距離的には後ろの扉の方が近いけど、そこには航平が立っているから通りづらいと判断したのかもしれない。慌ててたのか、あっという間に教室からいなくなってしまった。
わたしは扉付近にいる航平に目を向けられずにいた。
そんな気持ちも露知らず、一歩ずつこっちに近づいてくる航平の足音。
胸の鼓動が高鳴る。もちろんそれは恋とかの高鳴りじゃない。いつからかわたしは航平を怖いと認識するようになっていた。
好きだったのに……今はこんなにも恐ろしい。
「まさか、メアド教えてないよな?」
「……うん。教えてない」
「いい子だ」
机の中身を鞄にしまっていると、すぐ右まで近づいてきた航平がわたしの頭を撫でた。
その大きな手は何度も何度も優しく撫で続ける。その手の感触もぬくもりも今は怖かった。
「立って、麻衣」
急に右の二の腕を掴まれ、席から立ち上がらされる。その力も優しくて、いつもみたいに強引じゃないから驚いてしまう。
唖然として航平を見上げると、優しい笑顔を向けられた。
さっきまでの冷ややかな雰囲気が全く感じられない。怒ってたと思ってたのに……そうでもなかったのかな?
そう思ったのもつかの間、身体をそっと窓際の壁に押しつけられて、急に嫌な予感がした。
航平は顔色ひとつ変えず、わたしの襟元の赤いリボンを素早く外し、当たり前のようにブラウスのボタンに手をかける。
「ちょ……こんなとこで……」
「煩い」
「だってっ……高梨くん……戻ってきちゃう」
「構わない」
構わないのは航平だけでしょ? むしろばれたら航平が困るんじゃないの?
学年一位の秀才がこんなところでこんなことって……イメージダウンだよ? クールな國枝航平がこんな平凡な女とって。
それにいつも学校でする時は胸元なんて開かない。挿入できればそれでいい、そんな状態のはずなのに。だってわたしは航平のただの性欲の捌け口で――
ブラウスのボタンが四つほど外されて、白のレースのブラが丸見えになった。
ブラの肩紐をずらされ、カップの上から航平の長くて少し節ばった指が滑り込んできた。思わず肩を引き、両手でその腕を押し返す。
だけど、お構いなしにわたしの胸を弄ってすでに硬くなった先端をきゅっと摘み上げた。その刺激にわたしの身体が跳ね上がると、航平の口元が弧を描く。
満足そうに微笑んで、赤い舌が上唇を舐め上げた。これ、航平の癖なんだって最近わかった。
「やだ……見られるの……お願い、やめて」
「逆らう権利あるのか?」
少し苛立ちを見せる航平に哀願する。
「ちが……逆らってるんじゃない……見られたくないの……」
「高梨に見られたくないの?」
「違うよぅ……誰にも……あぁ……」
先端を指の腹で押され、内股に力が入る。下腹部がきゅんっと疼くような感覚に嘆きたくなった。
なんで淫らな自分の身体。本当に嫌になる。
航平の両腕のブレザーをしっかり掴んで堪えるけど、やめてほしいと願う意思とは裏腹に自分でも信じられないくらい甘い声が出てしまった。
「ん、やぁ……も……」
首筋に這う航平の舌。ちゅぱっと吸いつかれては舐めあげられる。
嫌だって思っているのに、身体は悦んでいるんだ……そう感じたら自分の浅ましさに酷く悲しくなり、涙が頬を伝った。
「もう下も大洪水なんだろ? 高梨に見せてやる? なんならあいつも仲間に加えてやろうか?」
耳元でそう囁かれて、とろんとしたわたしの意識は一気に現実に引き戻された。
小さく首を振り、航平の腕をさらに強く掴んで目で訴えると、意地悪そうな表情を見せつけられる。
「冗談だよ。バカ」
揶揄するような口調で、航平がわたしから離れた。
身体が解放されて、慌ててブラを直してブラウスのボタンをはめると、くくっと頭の上のほうで航平の含み笑いがした。
「そんなことさせるわけないだろ? おまえは俺だけのものなんだから」
目を眇めて航平がわたしを見てから鼻で笑う。
それはどういう意味? 今使ってる玩具を取られたくないくらいの子どもみたいな気持ちで?
そんなことはどうでもいいのか。深く考えたって答えなんか見つからない。この関係に終わりが見えないように……。
「帰るぞ」
襟元のリボンをつけた途端、航平に腕を引かれた。
「え、でも……日直の仕事が……」
「副担が呼んでるって言ったのにここにいたら余計おかしいだろ? 俺は別に構わないけど? あいつに俺らの関係バラしたいなら」
得意満面の笑みを見せると、わたしの腕を離して航平が先を歩いて行った。
ここで高梨くんを待っていると言ったとしても航平は認めないだろう。だからってここで好きなように弄ばれながら抱かれるのなんてもっと嫌だ。
さっさと教室を出て行った航平のその背中を追うしか選択肢はない。
その他にできるのは心の中で高梨くんに『ごめんね』と詫びることだけだった。
少し距離をあけて航平の背中を追う。
傍から見たら一緒に帰っていることなんてバレないくらいの間隔で。
視線は足元。何かが落ちてるかなんて思ってないけど、前を向いたって見えるのは航平の背中だけだから。
航平に彼女ができれば解放されるのかな?
モテるんだからクールとか女の子と苦手とかの間違ったイメージを脱ぎ捨てて、もっと肉食系な部分を表立たせればいいのに。とんだロールキャベツ男子だと思う。
見た目草食、中身は肉食とか呆れて物が言えない。ロールキャベツを食べるのは好きだけど、もう食べられるのは……。
足元の視界に、航平のスラックスの裾が入ってきた。立ち止まってる?
顔を上げてみると、すぐ目の前に航平の大きな背中があった。ぶつかる前に気づいてよかった。
「あれ? おまえらまだつるんでるんだ?」
航平の家の門に手をかけていたのは亮平くんだった。
亮平くんは、航平が高校受験に失敗した後、実家を出てひとり暮らしをしていた。
今は大手一流企業に就職して、営業職をしていると前に聞いた。髪をワックスで後ろに流し、スーツ姿の亮平くんはエリートサラリーマンにしか見えない。
あれからまともに亮平くんの姿を見たのは今日が初めてだ。
顔を合わせづらくて俯く。過去のことが甦って、身体が小さく震えた。
「そんな警戒するなよ、麻衣」
「何しに来た?」
亮平くんの笑いを含んだ声を打ち消すように、航平の低くて少し張り上げた声が頭の上のほうで聞こえた。怒っているってすぐにわかるトーン。
それとほぼ同時に足元に影が落ちた。
不思議な感覚がして顔を上げると、目の前に航平の大きい背中。
もしかして、隠された? でも……なんで?
「実家に来て何が悪い?」
「……悪いなんて言ってねえ」
「ああ、おまえまだ妬いてんの? ちっせぇ男だな。ナリばっかり成長しやがって」
険悪なムードで話を続けるふたり。
なんとなく亮平くんの方が優勢な気がするけど、身長は航平の方が大きくなっていた。
いつの間に航平はこんなに大きくなっていたんだろう。ずっと近くにいて気づかなかっただけなんだ。
亮平くんは、少しだけ見上げるように斜に構え、目の前の航平を睨みつけながら顔を寄せた。
それを見て、妙にドキッとしてしまう。綺麗な顔のふたりが絵になるのもあるけど、一触即発で殴り合いになったりしたらどうしようって。わたしじゃ止められない。
「おまえに本当のこと、教えてやろうか? 航平」
「は?」
「今まで麻衣に口止めされてた、こと」
――――どくん。
心臓が急に変な拍動をしたような気がした。
思わず息を飲んで航平の後ろから覗き込むように亮平くんを見ると、口元に挑発的な笑みを浮かべていた。でも、目は笑っていない。ただ眇めているだけ。
喉の奥から胸がギュッと締め付けられたような感覚がして苦しくなった。わたしは声を出さず、航平にばれないように小さく首を横に振る。
だけどそんなわたしからのサインをニンマリと微笑んで見ているだけの亮平くん。
「おまえには麻衣が誘ってきたって言ってたけど、あれ嘘な」
「は?」
「正確には、おまえのせいで麻衣はオレに――」
「亮平くん!」
何を言おうとしているのかすぐにわかって止めた。
それを言ったら……わたしがしたこと全て意味がなくなる。航平が受験に失敗したのもなにもかも。
「俺のせいで、麻衣が兄貴に……?」
動揺したような表情の航平がわたしと亮平くんを交互に見据えた。
「あとは麻衣に聞いて。無駄に殴られたくないし、じゃあな」
クッと口角をつり上げて、不敵な笑みを漏らした亮平くんはすぐに背を向けてわたし達が来た方の道を歩いて行ってしまった。
すれ違う瞬間、真剣な表情の亮平くんを見た。小さく唇が動く。
『ごめん』
わたしにだけにわかるようにその言葉は発せられていた。
「待てよ! 兄貴!」
航平が亮平くんを呼び止めたけど、それを無視して歩いて行くその背中はどんどん小さくなっていった。
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