その日、わたしはおじいちゃんの庭からもらったお花を持って母のお墓へ行った。
そこでいろんな話をしたんだ。
翔吾さんのこと、父のこと。
母の気持ちはもうわからない。わたしのことを怒っているかもしれない。
「でもね、わたし……あのひとのこと……」
そうつぶやいた時、風が大きく舞った。
お墓のそばのすでに葉桜になった木がサワサワと葉すれの音を立てて風に揺れる。
新緑の香りがかすかに鼻腔をくすぐる。それはとっても穏やかな優しい香りで。
母の墓にお供えした赤いチューリップが風に揺らめく。
その赤を見て思い出した。母のポインセチア。
あれは叔母の家に置いて来た。自分で持っているのがいやで、叔母に押し付けた母の形見。
母が亡くなってからもずっと叔母が育てていた。
携帯を取り出して、ひさしぶりに叔母に電話をかけた。
わたしの体調を気遣う言葉、そしてうれしそうな声。
今度はいつ顔を見せてくれるの? 叔父さんも待ってるわよと……。
――そして。
気になったポインセチアのことを訊いてみた。
『姉さんのポインセチア? 元気に育ってるわよ。この前切り戻しをしたばかりだから今は少し寂しい感じになってるけど……冬になればまた綺麗に咲くから。この花、姉さん本当に好きだって言ってたものね。雪乃ちゃんのために育ててるって言ってたし』
鼻をすするような音が叔母の声と共に、聞こえてきた。
一瞬聞き逃しそうになったその言葉に耳を疑う。
「わたしのため? お母さんがいつそんなことを?」
『そうね、亡くなる数日前かしら。電話で話をしてポインセチアの話題になったのよ。毎年分けてもらってたから。その時にね――』
叔母の声を借りて、母が残した言葉が語られる。
それは母の話し方を真似て、ゆっくりと――
『今年ももちろんおすそ分けするわ。今年は今までよりずっと綺麗に咲きそうなのよ。
この花は私の……大切なものだから。みんなにおすそ分けしたいの。
この花は雪乃のためにずっと育てているの。だから、一生懸命育ててるの。
この花が育つたびに、雪乃が大きくなったなあって実感するのよ。
雪乃が本当に好きになった人と結婚する時に、お嫁に行く時に絶対持たせるって決めているの。
私が叶えられなかった、一生夫に添い遂げる誓い……あの子には叶えてほしいから。
ポインセチアの花言葉を知っている?』
「し……らない」
声が震える。
すると、叔母が小さく笑ったような声がした。
母の言葉を、似た声の叔母が告げた。
『あなたの幸せを祈る』
空気が凪ぐように、一瞬五感が麻痺した感覚に陥る。
そしてすぐにざわっ、と風が吹いて。
木々もお供えの花も強く揺らいだ。
「お母さん!」
自然に声が出ていた。
わたしはとんでもなく親不孝なことをしているのではないか?
いくら本当に好きだからと言って、やっぱり翔吾さんを選ぶのは母を裏切る行為にしかならないのではないか?
『雪乃?』
「叔母さん……わたし……わたし……」
涙が止め処なく溢れる。
携帯越しに叔母の戸惑う声が聞こえてきた。だけど涙が止まらず、ずっと泣きしゃっくりをあげ続けた。
とりあえず、来なさい。
叔母の言葉に従い、そこから電車に乗って約二時間かけて叔母の家に行った。
高校時代はこの二時間の帰宅が苦じゃなかったのが不思議だ。今はかなりめんどくさい。年を取った証拠かな。
叔母の家に着いたのは十五時を過ぎており、叔父も待っていた。
客間に通されると、懐かしい大きな木のテーブルの上にはわたしの好きなケーキ屋のシュークリームが置いてあった。
そのほかにもおせんべいやクッキーがたくさん入ったお菓子の器がテーブルの真ん中に鎮座している。
「雪乃が帰ってくるからってこの人、慌てて買いに行ったんだから」
「余計なこと言わないでいい」
普段から寡黙な叔父は、慌てて新聞で顔を隠すようにしてしまった。
いつもの照れ隠しだって叔母と目を合わせて小さく笑い合う。
縁側から見える庭の真ん中に置かれた丸いテーブルの上に、母のポインセチアを見つけた。
それはさっき叔母から聞いていた通り、切り戻しをしたばかりで寂しい状態になっている。
だけど母の手から叔母に渡った後もそうやって丁寧に手入れされていて本当にうれしかった。
わたしが見捨てた花なのに。
シュークリームでお茶をしながら叔母夫婦に翔吾さんのことを話した。
父の再婚相手の弟だっていうことを含めて。
すると、ふたりとも厳しい表情をしていることに気がついた。
お互い顔を見合わせてうなずきあっている。目配せしているのがすぐにわかって居心地が悪い。
叔母が席を外し、白い封筒を手にしてすぐに戻って来た。
神妙な顔つきの叔母は叔父の右横に座り、それをテーブルの下に置いた。
「雪乃に本当のことを話すのはやめようかと思っていたの。でも、今の話を聞いて、話す時期が来たのかもしれない。今から辛い事実をあなたに話すわ」
目頭にぐっと力を入れてわたしを見据える叔母の表情はひさしぶりに見る硬いものだった。
母の葬儀で見た時以来だと思う。あれから叔母はいつも優しい表情をしていた。きっとわたしに話しかける時は笑顔を心がけていたんだと思う。
その叔母が今は険しい目でわたしを見ているのだ。よほどのことに違いない。
姿勢を正し、叔父と叔母の方にしっかりと向き合う。
「姉さんは……あなたのお母さんはね、事故じゃなくて自殺だったの」
凛とした叔母の眼差しからは悲しみのような切なさのような心情が取って伺える。
同時に申し訳なさそうなものも伝わってきた。
そんな眼差しをさせているのはたぶん自分のせいなんだろうと思い、胸の辺りが軋むようだった。
「うん」
わたしがそう返事すると、目の前の叔母夫婦が息を飲んだ。
「どうして……? あなた知っていたの?」
わたしからしてみたら叔母たちがなぜそれを知っていたのかのほうが不思議で。
だけど叔母たちはわたしがそれを知っていた理由のほうが気になる様子だった。当たり前かもしれない。
なので、わたしは母の遺書代わりのメモの話を簡潔に伝えた。
叔母は目を潤ませながら、叔父は眉をひそめて曖昧な表情をしている。
そしてテーブルの下からさっき持ってきた白い封筒を取り出してわたしの前に差し出した。
叔母夫婦宛ての手紙。そして見覚えのある筆跡。
――――お母さん。
「姉さんが亡くなって数日後に家に届いたものなの。私たちはこの手紙で姉さんの自殺を知った……だからあなたには一生この手紙を見せるつもりはなかった。でもね、そこには姉さんの思いも綴られているの」
封筒を手にして躊躇いながら中の便箋を取り出す。
だけど出し切らないままわたしの手は止まった。
この中に、母が自殺をすることを記した内容が記載されている。
自殺してからこの家に届いたのは、母が思い残していることを叔母に知らせるためだろう。そして、自殺を止められないよう、事を起こす寸前にポストに投函されたものだろうと容易に想像できた。
それを今、わたしが読んで受け止められるの?
小さな音を立ててテーブルにその封筒を戻した。
「そうね、読まなくてもいい。ただ、姉さんの思いだけは私の口から伝えさせてね」
母の思い。
わたしが知らなかったこと?
再び目の前にさっきより少し大きめの茶封筒が差し出された。
それは少しふくらみがあって、何かが入っているのはすぐにわかったけど……。
叔母が目で『見なさい』と促すから、手にとって中身を確認した。
中からは黒い印鑑入れと通帳が二冊出てきた。
見ると、名義はどちらも『風間雪乃』になっている。
「結婚資金に充てなさい」
叔母の言っていることの意味がわからなかった。
いきなり預金通帳を二冊も出されてそれが自分の知らないところで自分の名義になっていて、渡されても戸惑いしかない。
それをテーブルの上にそっと戻すと、叔母が首を振るのがわかった。
「それは姉さんがあなたのために残したものなの。姉さんが死んだ後、あなたに大学へ行くよう勧めたわよね。それをあなたは頑なに拒否した」
もう、五年も前の話。
母が亡くなった後、わたしはこの家に引き取られてすぐに叔母夫婦に大学へ進学するよう勧められた。
お金の心配をする必要はない。ここから通える大学じゃなくてもいいから。とにかく行きたい大学を受験しなさいとかなり強く言われたのだ。
すでに行きたかった大学の推薦の話は両親が離婚した直後に白紙に戻っていたし、もう自分は短大に行くと決めていた。
父からの養育費で間に合うのだからそれでいい。その後は少しでも早く働いて母と――
その母はもういない。
叔母はその時もこの部屋でわたしの手を優しく握って言ったのだ。
「雪乃が大学へ進学するのが姉さんの希望なのよ。だからわかって、ね。一般受験は大変だろうけど……」
母に似たきれいな笑顔でわたしの顔を覗き見る叔母から目を逸らしてわたしは申し出を断った。
大学へは行かない。短大へ進む、と。
何度も何度も根気よく大学進学を勧められた。だけどわたしは頑なに断り続けた。
なぜ大学に行かないのか訊かれれば『大学へ行ってまで勉強したいことはない』と告げた。
これは正直な気持ちだった。本当ならば短大にだって行かなくてもいいくらいだった。
勉強は好きではないし、すぐにでも就職して独り立ちしたかったのだ。
だけど、それを言ったら反対されると思っていたからあえて口にはせず短大進学を決めた。これは母が生きていた頃から決めてたこと。
母はわたしの進学問題について叔母に相談していたのだろう。だからしきりに進学を勧めてくるんだ。そう思っていた。
「その手紙にね、雪乃に大学へ進学するよう勧めてほしいって書いてあったの。だけどね、この手紙の存在のことをあなたに伝えれば、姉の自殺のことをあなたにバラすことになってしまう。それだけは避けたかったのよ。そのお金は雪乃の大学進学と結婚資金に充てるようにと書いてあったの」
目の前に置かれたすでに冷めたお茶を叔母が少しだけ口にすると、叔父が立ち上がる。
わたし達の湯飲みを盆に載せて静かに客間を後にした。
母が、そんなことを叔母にお願いしていたなんて……。
なんとなくずるいって気持ちが浮上してしまう。
自分で説得できなかったからって、そんなに大変なことを叔母に託して自分は……。
「だけどね、あなたは全く意志を曲げなかった。姉さんそっくりの頑固者ね」
「ちがっ……」
くすくすと笑う叔母に俯けていた頭を上げて食って掛かると、小さな手のひらがわたしのほうに向けられ、無言で諭された。
「あの人とね、相談したの。大学にはいつでもいける。雪乃は聡い子だから、本当に行きたいと思った時は自分で『行く』と言い出すだろうって。それまで待ってみてもいいんじゃないか? 無理強いはよくないって」
聡い子なんかじゃない。ただのわがままだ。
その言葉を飲み込んで、首を振った。
叔父は高校を卒業してから一般企業に就職し、二十代前半で退社して大学へ進学したと聞いたことがある。
だからきっと叔父がそう言って叔母を説得してくれたんだろうって思った。
「姉さんは、そのお金を私たちからだと言って雪乃に渡すようにと手紙に書いていた。だけどそれは違うだろうって。だから今、この機会だし本当のことを伝えようと思って。これが最期の伝言――」
「……最期?」
柔らかな、母そっくりな笑顔がわたしに向けられる。
テーブルの上においてあったわたしの手を、叔母が少し身を乗り出してそっと握りしめた。
「その手紙の最後に『雪乃は、本当に好きになった人と結婚して……そして、あの子が連れてきた恋人を認めて祝福してあげてね』そう書いてあった」
最期の母からの伝言。
それを聞いて涙がつうっと零れた。
叔父と叔母は恋愛結婚だったと母の口から聞いた。
その話をした時の母を言葉を急に思い出した。
『恋愛結婚っていいわよね。本当に好きな人と結ばれるのだから。私とお父さんはお見合いだったけど、でもよかったなって思っているのよ。あなたも、本当に好きな人と結婚しなさいね』
陽だまりのような笑顔で、ポインセチアの世話をしながら母がそう言ったのは、わたしが中学生くらいの時だと思う。
母は恋愛結婚に憧れていた。でも、父と出逢えてよかった。
その気持ちに嘘偽りはなかった。だから、母はその生きがいを失って命を絶った。
「だからね、雪乃。その人に会わせなさい。親として挨拶をしたいから。それに、その人には何の罪もない。だから胸を張って連れてきなさい」
叔母は本当にうれしそうに微笑んだ。
でも、わたしは曖昧に小さくうなずくことしかできなかったの。
だって、翔吾さんは……もう……。
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