それから雪乃は滅多に部屋から出てこなくなった。
職場でも家でもほぼ接点なし。
俺がいない間に入浴を済ませ、食事は別々に食べる。それが当たり前になっていた。
俺が帰ってくるとすでに雪乃は家にいて、部屋に閉じこもっている。
その扉をノックしていいのか迷い、結局せずにリビングへ向かう。
玄関に雪乃の靴がある。それだけが君がこの家にいる証拠。
職場では毎日湯田晴花にベタベタされる日々。
なるべく外回りかPC室に閉じこもるしか方法はなく、息苦しい数日だった。
何度も真奈美に連絡をして湯田専務にアポを取ってもらうよう頼んだが、ことごとく断られ続けている。
もう、食事会の日曜に断るしかないのだろう。
**
そして日曜日。
朝から天気は曇り空。今にも雨が降りそうで、俺の気持ちを表しているようだった。
日曜なのにスーツを着こんでネクタイを締めていると、携帯が震えた。
登録していない番号からの電話だった。
「――はい」
『雨宮くん、私だ。湯田だが――』
――湯田専務?
まさか今日の食事会は中止とか?
そう言われるのを待っていたが、全く違うことだった。
『今日十二時に待ち合わせしていたが、十一時に来てくれ。ふたりで話したいことがある』
待ち合わせ時間が早まっただけだった。
期待していただけに気分はさらに沈んでゆく。
いくら部長の頼みとはいえ、なんで俺がこんな目に遭わなければならないのか疑問しか浮かばない。
時間はすでに十時をまわっていた。そろそろ出ないと……。
リビングを出て、玄関に向かおうとした時に雪乃の部屋の扉が開いた。
驚いた表情でこっちを見ている。
薄手のカーキーのジャケットを羽織って、出かけようとしていたのだろうか。
「おはよう。出かけるの?」
「はい」
「俺も出かけるから……」
会話が続かない。
もう俺と雪乃はダメなんだろう。
そんなことを考えていたら、強い喪失感に襲われた。
足元に視線を落とすと、いきなり視界に雪乃が入ってきた。
「ネクタイ、少し曲がってます」
白い手が俺の首元に伸びてきて、ネクタイをそっと直してくれた。
結び目をじっと見つめて目を細め、雪乃が小さく微笑む。
「今日の翔吾さん、素敵です」
「え……」
雪乃の唇が“がんばって”と動いたように見えた。
「いってらっしゃい」
すうっと俺から離れる雪乃を見て、胸が痛んだ。
頑張ってってなんだ? どういう意味だ?
嫌な予感がしてならない。
それなのに雪乃は玄関まで俺を見送り、笑顔で手を振る。
まるで仕事に出かける主人を見送るかのような……そんな顔で。
玄関の扉が閉まる。
このまま行ってしまえば、きっと――
扉のノブを掴んで思いきり引くと、涙を流した雪乃が驚愕の表情でこっちを見ていた。
「……どうして?」
震えた声で雪乃が小さく漏らす。
捨てられた仔犬みたいな目で見つめられ、胸の辺りから熱いものがこみ上げてきた。
手を伸ばして、雪乃の小さな身体をきつく抱きしめる。
抱きこまれた雪乃は身をすくめて、その手から逃れようともがいた。
「お化粧ついちゃう……離して……」
「構わないよ……」
「痛いから……」
「雪乃――」
俺のスーツのポケットの中で、携帯電話が震えた。
それは俺たちの間を切り裂くかのように震え続けている。
「電話……」
俺の腕の中で雪乃が小さな掠れた声をあげた。
「なんで、泣いてるの……」
「電話……切れちゃう。出ないと」
「質問に答えて」
「電話! 出て!」
雪乃が声を荒らげて叫んだ。
その言葉と声がどれだけ俺の心臓を抉ったか君は気づいていないだろう。
だけど、この時俺は本当に泣きたかったんだ。
震える君の身体を離して、顔を見ないようにして玄関を出る。
画面を見ると、また番号で表示されていた。
さっき湯田専務の携帯番号は登録したはずだ。と、いうことは?
『あ! 雨宮さん? 今日楽しみにしていますからね』
――――湯田晴花。
こんな時にこんな浮かれた声でうれしそうに電話をしてきた。
入社式に湯田晴花を誘導しなければ、いや、その前に誘導係がおたふく風邪になんかにかからなければ……。
もう『たられば』しか頭に浮かばない。最悪のループ状態。
そんなことを言ったら、俺があのクリスマスの日、姉の家にケーキを取りに行ってなければ。もう少しタイミングがずれていたら、俺は制服姿の雪乃に逢うことはなかったのに。
そうしたらこんなに苦しまなかったのかもしれない。俺も雪乃も。
湯田専務との約束の場所は会社の最寄り駅から急行で一つ目の駅から少し離れた料亭だった。
その周囲は静かな雰囲気で道を一本入るともう別世界のよう。
入口はこじんまりした古い造りで周りは黒板塀に覆われており、高級料亭の雰囲気をかもし出している。
中に入ると和装の女将が湯田専務の待つ部屋へ誘導してくれた。
その部屋の襖を開けると窓際には小さな庭があり、まるで高級旅館の一室のような造りになっている。
床の間には見たこともない鮮やかな赤い花一輪と高級そうな湯呑み、そして虎の水墨画の掛け軸が仰々しく飾られていた。
今時獅子脅しがついている小さな池がある庭なんて珍しい。手入れの行き届いた日本情緒あふれる庭だと思いながら、現実逃避をするようにぼんやりと眺めてしまっていた。
「急に呼び出して悪かった」
上座に座った湯田専務に勧められるまま大きな木の造りのテーブルを挟んで向かい合わせに座る。
まだテーブルには何の準備もされていない。湯田専務の前にお茶がひとつおいてあるだけだった。
「妻と娘が来る前に、君に確認したかったんだ」
すっとテーブルの上に大きな封筒が置かれ、こちらに差し出される。
顎で見るように示され、手にとって中を引き出すと――
「……これは」
俺のマンションに入って行く雪乃の姿を盗撮した写真だった。
その他にエレベーターホールで待っているところ、俺の家の鍵を開ける彼女の写真が数枚。
湯田専務がテーブルに両肘をついて、少しだけ身を乗り出す。
「その女性はうちの社員だね。システム管理部事務管理課第三係、風間雪乃。先日まで営業管理課第一係で総合職のフォローをしていた女子社員」
「……はい」
「なぜその女子社員が君の家に……しかも君の不在時に鍵を開けて入っていくのか、私が納得するように説明してもらおうか」
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